90年前の地質屋たちの肖像 -デスモスチルス発掘-
川村信人(HRCG理事:元北海道大学理学部:札幌市清田区在住)
・本アーティクルで紹介した発掘資料の原著作権は故 長尾 巧教授とその共同研究者にあります.所有権は少なくとも1998年時点では当時の北海道大学理学地鉱教室第2講座にありましたが,その後北海道大学附属総合博物館に移管・所蔵されています.その経緯については正確な記録が無く,多くは川村の記憶に基づいています.したがって,その中には錯誤・脱落を含む可能性があります.
・北海道大学総合博物館所蔵資料の二次利用については,2023/02/20 付けで同博物館の使用許諾を得ています.申請にあたっては,同博物館古生物担当・小林快次教授および事務担当山田氏からご配慮をいただきました.記して謝意を表します.
・本アーティクル中の記述や解釈の中には単なる推測・憶測に過ぎないものがあります.したがって,その中には不正確なあるいは事実ではない点を含む可能性があります.
このセピア色した写真は,有名な樺太のデスモスチルス化石発掘の際に撮られたものです.時は1934(昭和9)年9月.今から 90 年前の写真です.
撮影場所は樺太・気屯(現サハリン・スミルヌイフ)の西方にある化石発掘場所周辺と思われますが,詳細は分かりません.気屯川沿いにある『二股森林駐在所』が発掘の拠点というか中継場所の一つになっていたようですが,建物内部の壁などの様子を見る限りは,そのような 立派な宿舎 の中などではなく.発掘現場のそばにあった 造材小屋 の中なのではないかと推察されます.
右から二人目の,サスペンダーを付け,口髭を蓄えパイプに差した煙草をくわえている方が,この発掘のリーダーで,その後このデスモスチルス化石を命名・記載された北海道大学理学部地鉱教室長尾 巧教授です.その右のハンサムな方は植物化石がご専門だった大石三郎助教授.お洒落な角型の腕時計をしていますが,一人だけゲートルをきっちりと巻いています.左から二番目の,長尾教授と肩を重ねている丸眼鏡の青年は,当時東北大学の学生さんだった橋本 亘(わたる)さん.のちに北海道の中生層研究者として有名になった方です.一番左の模様付き布チョッキを着ている方が地鉱教室石工室の増子新太郎さんです.
この写真は,元写真を私が 1998年頃に低解像度スキャンでデジタイズしたものですが,今回 AI 写真処理ソフト(Topaz Photo AI)によって解像度を上げ,ディテールと顔の復元を施しています.
大石助教授の顔の部分はかなり大きく被写体ブレしていました.また,長尾教授らの顔にはきっちりとフォーカスが来ていますが,すぐ手前の瓶は大きくボケています.つまりこの写真は,シャッター速度がかなり(おそらく1/4秒よりも)遅く,開放絞りに近い狭い焦点深度,さらに手持ちではなく,おそらく三脚等で固定されたカメラで撮られたものということが分かります.
もう少し詳しく写真を見てみると...ちゃぶ台?の上には,お茶筒のようなものと缶詰? そして地質屋には定番の酒瓶が.この形はウィスキーなんでしょうか.ラベルはこちらを向いているのですが,白飛びにより画像復元でも判読できませんでした.その右側にはなんと明治製菓ドロップの缶が見えます.
左側の木箱?の上には,野帳および調査かばんのほかに,大判写真フィルムのホルダーのようなものも見えています.2段になっていて下の方に遮光版?を引き出すためのつまみのようなものが見えます.最初はこれを見た時,乾板のホルダーかとも思いました.実際 1930 年代にはまだ乾板写真が使われていたはずで,私も実際その当時の乾板を第2講座の実験室で見たことがあります.しかし,かさばって扱いの難しい乾板と乾板写真機をこの山奥に持ち込んだとは到底思えません.それ以上のことは私には no idea です.ぜんぜん違っているかもしれません.
その手前には,革ベルトと,おそらくそれに装着されたやはり革製に見える四角いホルダーケースのようなものがあります.最初見た時,猟銃の銃床かとも思ったんですが違うようです.鉈のケースでしょうか?
大石助教授はゲートルを巻いた姿ですし,右からの光線の差し込み具合からは,かなり太陽が低いように見えますので,これから現場に出かける朝方の撮影ということかもしれません.作業から帰ってきた夕方の撮影と考えると,酒瓶がそのままになっているのはちょっと...?
実は,この写真を誰が撮影したのかは分かっていません.今のカメラで類推すれば三脚等に固定してセルフタイマーで撮った可能性もありますが,当時発掘メンバーが持参したカメラはどのようなものだったのでしょうか.帝大の教授が...と考えるとライカ・ツァイス以外ありえないような気もしますが(右写真).とはいえ,そもそも 1930年代当時のカメラの仕組みがどうなっていたのかなど,私にはまったく分かりません.こういうタイプのカメラだとセルフタイマーはシャッターボタンの上にねじ込む牛乳缶のミニチュアみたいなやつだと思うのですが,1930年代には?
この写真に写っている方のほかにカメラを扱うことのできる参加者がいたかどうかは不明です.あるいは現地の関係者の方がシャッターを切ったという可能性もあります.川村(2007)では,発掘に同行した根本 要氏が撮影者であると書いていますが,具体的な根拠は書かれていません.根本さんは大学の職員ではなく,“化石の収集に協力していた” 方と聞いています.化石販売業者ということなのかも.長尾ノートには名前だけが書かれていますが,詳細は分かりません.これらの点については,後の方で詳しく考察・追究してみたいと思います.
この写真は,長尾教授が東北大学へ転出された後に地鉱教室層位学古生物学講座(第二講座)に残され,その後第二講座の教授となられた湊正雄先生の手元で長らく保存されていたものと思われます.
湊教授退官後は,第二講座出身の方ならばご存じの,理学部本館(現博物館)南棟西端の階段踊り場の上の吹き抜けの上(!)に設置された『4階実験室』の書棚の中に保存されていました.この書棚には通称 “湊文庫” と呼ばれていた書籍・雑資料等が保管されており,私は博士号取得後の研究生の時にその実験室に短い間棲んでわけですが,その時に古びた封筒の中に上の写真を含む複数の写真と,長尾先生のフィールドノートを “見つけた” わけです.それが 1983-1985 年頃のことだったと思います.
これらの資料の存在は,もちろん当時の第二講座のスタッフ,特に湊正雄教授の後を継いだ加藤誠教授や箕浦名知男助手には周知のものだったというか,単にお二人がそこに貴重なデスモスチルス発掘資料を収納保存していただけだったのでしょう.しかし私をはじめとした学生・院生は(おそらく)誰も知らないものでしたので...私は(あさはかにも?)これらを『発見した』と思ってしまいました.
その後 1998年になって,北大総合博物館の設置が決まり,その “先行展示” として地球科学系が選ばれ,『北の大地が大洋と出会うところ -アイランド・アーク(島弧)』というテーマで準備組織が立ち上がりました.おもに当時の地鉱教室のメンバーで,古生物・地層系からは私と箕浦先生が担当メンバーとなりました.その中で目玉の一つとしてデスモスチルス化石の展示が行われることとなり,上に書いた資料がやっと日の目を見たわけです.
四階実験室にあった発掘資料を使用するというのは私が言い出したことなのか,それとも箕浦先生の指示によるものだったのかは,もはや定かではありません.しかし,そのデジタル化やパネルの作成などはすべて私が受け持ちました(右図).展示が開始されたのは,1998年11月24日でした.
この先行展示の準備が終わったあとは,これらのデスモ資料はそのまま四階実験室書棚に戻されたと思いますが,その後大きな危機が訪れます.地鉱教室の理学部本館(旧館)から 新館(6号館)への引っ越し移転 です.移転した時は地球科学教室になっていましたが,当然のことながら四階実験室の中身は移転する先がありませんでした.2002年6月のことです.この時,『第2講座の遺産』は,多くがバラバラになってしまい,その大部分はおそらく廃棄されました.長尾ノートをはじめとするデスモ資料は,私が四階実験室から勝手に(?)サルベージして,手元に保管することになったわけです.もしかすると,箕浦先生も同じようなことを考えて・行なおうとしていたのかもしれませんが,互いに承知していませんでした.
それから私は,教室スタッフとしての通常業務の合間にヒマを見ながら,資料の内容についての限定的な検討を細々と行っていきました.その成果は,地質学会ポスターセッションで公表しています(川村,2007;左図).
実は,この発表講演は...加藤誠先生にも,また既に博物館スタッフとなっていた箕浦先生にもまったく相談せず,一人で勝手にやったものです.いま考えてみると,なんだか無謀・自分勝手なものだったかなとは思いますが,『誰も見向きもしないようなんで俺がやってやるか』といった浅薄な気持ちもたしかにあったような気がします.いまさらですが.
しかし当然というのか,この発表講演に対する反応はほとんどありませんでした.ポスターセッションですから,目の前でダイレクトに反応が聞けるわけなのですが,そういった記憶は一つもありません.後日どなたかから “地学教育関係の雑誌に投稿したらどうか” というサジェスチョンを受けたような記憶はありますが.もちろん投稿はできませんでした.やっぱりこういう古い話は,いまさらだし,あまりウケないのかな?という気持ちで,正直モチベーションが湧きませんでした.
講演発表後,この件はひとまずこれで終わりかと,デスモ発掘資料は自分の手元に保存することにしました.それらは,写真アルバムとして別ページにまとめて掲載しています(ページ末尾のリンク参照).その時点でそれらは博物館の資料となっていて形式的にはそれを私が借り出していたような記憶もありますが,はっきりしません.資料一式は,2017年の退職までに北大付属博物館に “返納” しています.
ということで,デスモ発掘に関する私の資料 “発掘” 作業は中途半端に終わり,それ以上日の目を見ることはなかったわけですが...後述の加藤誠先生による『長尾 巧先生小伝』(2009)と,岡(2017)の中に,私の学会講演が簡単に紹介されたのは嬉しいことではあります.
少し話を戻します.私が同教室に在学していた 1970年代当時,理学部本館3階アインシュタインドーム下の踊り場にデスモスチルスの復元骨格が展示されていました(左写真).しかし,既にホコリにまみれており(?)その場所も薄暗く,解説パネル(右図)も若者には読み難く,古生物学に素養の無い私のような学生の多くにとっては『なんだかよく分からない古い怪物の骨』でした.実際はこれはレプリカでしたが,学生の中には本物の骨と思っていたやつ(私か?)もいたようです.教室の諸先輩方がどのような苦労の下にその貴重な化石標本を発掘し研究したかなど,まったく興味の外でした.なんとも罰当たりなことだと思います.
それでは,古生物学に無知でデスモスチルスには何の関係もない私が,この『地質屋達の肖像-造材小屋の四人』の写真になぜこれだけ長い間,少なくとも 30 年以上にわたって思い入れを持つことになったのでしょうか? それはなんと言えばよいのか...『酒瓶を前にした地質屋の肖像は,いつの時代もあまり変わらないものである』というか.この写真を見ているうちに,一人の『野外地質屋(field geologist)』として,どんどんとそういうものに感情移入してしまったということなのでしょう.今は自分は既に地質屋をリタイアした身なのですが,そういう風景は『変わって欲しくないものだ』というノスタルジックな気持ちも.
ここであらためておことわりしておくと...私は黒歴史シリーズにも書いたように化石音痴というのか,ある意味化石嫌いというのか...1933年に発掘されたデスモスチルス化石がどのような古生物学的な意義を持つのか,骨格復元や分類や地理的分布や生態に関する議論が現在どうなっているのか,そういった事にはまったく興味がありません.また,発掘のリーダである長尾教授の来歴や業績といった事にも同様です.
長尾教授についてのあれこれは,北海道大学総合博物館のボランティアニュースに,私の恩師である加藤誠先生が 2009-2010 年に書かれた『長尾 巧先生小伝』という一文がありますので,興味ある方はそちらをご参照ください.
この発掘の経緯等について知ることができる論文・記事は,私が集めた限りでは以下の四つです.
・長尾・大石(1934)『樺太國境附近にて發見されたるデスモスチルス(Desmostylus)の遺骸に就いて』地学雑誌,46,100-111.学術論文であり,発掘の経緯等については最小限の記述となっている.写真の掲載はない.
・長尾(1934)『デスモスチルスを探ねて』科学と知識,第14巻三月號,23-25.長尾教授自身による唯一の発掘記事.
・根本(1936) 『樺太氣屯初雪澤デスモスチルス發掘紀行』我等の礦物,第5巻1号,10-18.学外の参加者による発掘記事.紀行文の要素が大きいが,発掘の日常を示す興味深い記述がある.
・たかしよいち(1971)『まぼろしの怪獣-デスモスチルス発見物語』偕成社刊,113-145.ある程度の “フィクション的な表現” を交えたと思われる読み物であるが,他の記事にはない記述・写真が満載された貴重なもの.
デスモスチルス発掘は,1933年10月と1934年9月の2回にわたって行われました.右に,上の資料を基にした概要(参加者・日程等)を示します.
長尾・大石(1934)には 1933年の発掘参加者全員の名前の記述は無く,単に『余等』と書かれているだけです.後述する “長尾ノート” にも1933年の発掘参加者の記述は見当たりません.
資金については,後述する長尾ノートに 1934年発掘の際に学術振興会から 1,100 円が交付されたとあります.当時の通貨価値を判断するのは難しいのですが,ネットで調べてみると,企業物価指数では現在の 1/800,収入水準では 1/5,000 程度のようです.これを使うと,現在のお金に換算すると 90万 ~ 500万円程度となります.幅が大きいのですが,おそらくこの間でしょう.
※ なお,たかしよいち(1971)では,当時の通貨価値として 1/600 (50円 = 3万円)を使用しています.根本(1976)の後記では,1/10,000(2000円 = 2000万円)が使われていますが,これはどう見ても過大なように思われます.
このデスモスチルス発掘を簡単に要約すると,以下のようになります.
・1933年5月,樺太在住の工藤政治氏によって頭骨が長尾教授のもとに持ち込まれる.
・1933年10月,発掘の成否を見積もるために大石助教授が先発.
・1933年10月,その結果,見込ありということになり,長尾教授と増子技官が樺太に向かう.教室メンバー3人+現地作業員が発掘を行い,小岩塊(上半身)を発見・採取.その際,下半身を含む大岩塊を確認するも,採取を断念.
・1934年9月,上記メンバー+根本・橋本・宮本+現地作業員で発掘を行い,大岩塊(下半身)を採取し終了.
蛇足: 橋本 亘さんは,追悼文(猪郷,2000)によると1935年東北大卒となっていますので,当時の学制がよく分かっていないのですが,1934年発掘当時は矢部長克教授の研究室の “最終年度学生(三年生?四年生?)” だったと思われます.私がこのことを知ってずっと不思議に思っていたのは,『なぜ北大長尾研究室の学生さんが参加しなかったのだろう?』ということでした.この疑問は,たかしよいち(1971)を読んで氷解しました.長尾研の学生さんの『大杉さん』が参加するはずだったのですが,急病のため参加が中止になったということだったのです.
旧地鉱教室第二講座に保管されその後北大総合博物館に所蔵された デスモスチルス発掘写真 (以降:発掘写真)には,撮影時期などが記録されておらず,公表論文・記事に掲載されているもの以外は,被写体や撮影時期・撮影者などはすべて推測ということになります.公表されているものでも,撮影時期・撮影者は多くの場合明記されていません.
まず,撮影時期を判断する際のキーとなるのは,以下のようなことです.
・長尾(1934)での掲載: この記事は1934年発掘以前に書かれ公表されたものなので,内容は 1933年発掘に関するもののみである.
・根本(1936)での掲載: 根本さんの立場を考慮すると,この記事に掲載された写真は根本さん自身が撮影し所有していた 1934年発掘時のものと考えられる.
・橋本 亘氏: 1934年発掘のみの参加だった.
・大岩塊: 1933年時点でその存在は認識されていたが,姿を全体に現わし引き揚げられ分割されたのは 1934年発掘時である.
・服装: 1933年発掘は既に晩秋から初冬であり,特に長尾教授は黒の厚地の上着に黒い防寒帽のような帽子を被っていた.
長尾(1934)には2枚の現地写真が掲載されていますが.そのうちグラビア写真ページ(248 p)の下図は,写真アルバムに紹介した『02.四号提』です.
根本(1936)には合計6枚の写真が掲載されていますが,2枚は集合記念写真,1枚は大学室内の骨格安置?写真ですので,発掘作業に関わる写真は3枚だけです.そのうち第4図は,写真アルバムに紹介した『08.岩塊引き上げ』,第5図が『09.岩塊と骨を見る』です.第4図には7人が写っています.撮影者を含めて少なくとも8人の人がいたことになります.第3図は『06.団球と露頭』と同じシーン・被写体ですが,構図が異なり別の写真です.
これらのことをまとめると,長尾ノートと共に保存されていた発掘写真11枚のうち1933年撮影のものは3枚だけで,それ以外は 1934年発掘時に根本さんが自分のカメラで撮影したものと考えられます.ただし,『08.岩塊引き上げ』には根本さん自身が写っていますので,どなたか他の方(大石助教授?)がシャッターを切ったのでしょう.
ただ考えてみると,1934年発掘時に,根本さん以外の参加者が誰もカメラを持って(・写真を撮って)いなかったというのは非常に考えにくいので,もしかすると,たかしよいち(1971)に掲載されている多くの写真の中には 1934年発掘時に長尾・大石・橋本の誰かが撮影したものが含まれているのかもしれません.
デスモスチルス化石が発見されたのは,気屯川支流初雪(はつゆき)沢上流部です.当時の初雪沢には,造材のための木堤がいくつか設置されていました.現在ならばこういう設置物は砂防堰堤なわけですが,そういうものではありません.伐採した木材を川に流して堤でトラップし,水落口を切って木材を一気に流送するためのものでした.長尾・大石(1934)によると,一~五までの五つの造材用木堤があったようです.化石が発見されたのは “四号提” の下流側すぐそばです(上写真).
ここでは,デスモスチルス化石の発掘場所とその周辺の地形について簡単に述べておきたいと思います.初雪沢は,今は日本領ではなくなりましたが,樺太島の中央部付近に位置する気屯(けとん)の西方(左図)にあります.気屯は現在はスミルヌイフと呼ばれていますが,本文ではこれを含めて,すべて 1930年代当時の地名で表記します.言わずもがなですが,当時のことを記述するのが目的であるためで,政治的な意味合いはまったくありませんのでご了解ください.
右図は,Google Earth による 2020-2022 年撮影の衛星写真です.気屯川は “中央山脈” を源頭として東に流下し,気屯市街地の北を通過して幌内川に合流しています.初雪沢は,その上流部の北支流で,NNW-SSE 方向に伸びる中央山脈の東麓部と幌内川流域の低平地の間に位置しています.
右図下の3D俯瞰図では,手前の尾根筋は緑濃い状態ですが,中央山脈は積雪で真っ白になっており,そんなに標高差があるとは思えませんので,7月の風景としてはなにか不自然な感じがします.SRTM30 標高データで確認してみると,手前の尾根筋が 600 - 700 m前後,中央山脈が最高で 900 - 1000 m でした.Google Earth は場所によって撮影時期が異なっていて,それを無理矢理?合成したものですので,撮影時期の違いによるものかもしれません.確認してみたら,中央山脈の衛星画像は2018年1月の撮影でした.やっぱり...
初雪沢中流部の現在の状況を Google Earth の拡大イメージで示します(右図).撮影時期は 2020年7月です.これ以上拡大してもディテールは出てきませんので,これが Google Earth の限界のようです.
長尾・大石(1934)に示されている四号提の推定位置を描き入れてみましたが,少なくとも Google Earth 衛星写真ではその存在の痕跡を認めることはまったくできず,沢型もかなり変化しており,植生で沢筋が隠れている部分もあるため,その位置はあくまでも推定ということでご容赦ください.
上に掲載した四号提の 1933年の写真では,初雪沢の沖積部は非常に広くて,沢の上方は広く空いているので,衛星写真でもそんな感じで見えるかと思ったのですが,どうもイメージが狂いました.この 100年近い歳月の経過で,沢の周りの植生の繁茂が著しいということなのかもしれません.なお,土石流や斜面崩壊の痕跡等は見られませんでした.
右図でもそうですが,初雪沢沿いや気屯川周辺地域を Google Earth で広く見ても,林道・砂防ダム・作業施設等の人工構造物はまったく認められません.現在はロシア側による林業・森林管理業務などは一切(長期間?)行われていないということだと思われます.
ただし右図では,沢に沿った平坦地上に低灌木(?)の直線的な配列と草(笹薮?)地状の切れ目が,途切れ途切れですが直線的になっているところがあります.おそらく過去の林道あるいは作業道の痕跡と考えられますが,これが 1933-34年の発掘当時にあったものの痕跡かどうかは分かりません.もしかするともっと新しいものなのかも.
南樺太(南サハリン)の地質に関しては,ソ連領となる以前およびそれ以降でも,国内研究者による膨大な資料が存在していますので,興味のある方はネット検索でそれらを参照してみてください.ここでは,デスモスチルス化石包含層を理解するための最低限のことだけを書いておきたいと思います.
デスモスチルス化石を含む地層は,長尾・大石(1934)では,“新第三紀層・上部(海成層)”とされ,個別の地層名は付与されていません.四号提のすぐ上流には下部(夾炭層)が分布し,化石層準は境界直上の層準となっています(右図).化石層準の岩相は “帯緑灰色の砂質頁岩・泥岩” を主体とし,石灰質団球や玄能石を含むと書かれています.これらの地層は東傾斜で 45-50度,急なところで70度を越えると書かれています.意外に急傾斜で褶曲している(=構造変形を受けている)んだな...というのが正直な感想です.新第三紀層の上位は,広く段丘堆積物で覆われています.長尾・大石(1934)は,これを上位・下位2段の段丘に区分しています.
なお後述の長尾ノートには,“grayish blue の muddy sandy shale”・“Desmostylus horizon より数米上に 30 - 40 cm,glauconite bed あり”・“Cyclamina, Ammodiscus 等あり”と記載されています.いずれも層位屋として非常にハイレベルな記載です.最後の化石名はいずれも微化石(有孔虫)ですので,野外でそれと分かるというのは,さすがプロという感じがします.おそらく私などにはとても判別できないでしょう.
四号提のすぐ上流には NNE-SSW 方向の大きな断層があり,その西側には北海道の蝦夷層群に相当する白亜系堆積岩が分布しています.長尾・大石(1934)には,デスモ化石とは関係ないはずの白亜系の岩相や構造も仔細に書かれています.さらには,蝦夷層群との岩相対比(下部菊石層=蝦夷層群下部層準)の議論まで.このへんが,筋金入りの野外地質屋はやっぱり違うなと思わせる点です.そう感じるのは私だけでしょうか.
岡(2017)は,気屯付近の新第三系に関するおそらく最新の資料と思われます.デスモスチルス化石層準は “ヌウト層下部層” で,暗灰色~灰色砂質泥岩を主体とする浅海成相とされています.残念ながら初雪沢(=ベレジーナ川)に入った記録はありませんが,その近傍地域で急立したヌウト層上部層の露頭写真が掲載されています.段丘については,高位・中位・低位の3段に区分しています.
北海道大学化石データベースには,産出層準が『本斗層群内幌夾炭層』となっていますが,普通 “夾炭層” というのは部層相当単位なので,層序区分名として層群との間に累層が欠けているように思われます.また長尾・大石(1934)では上述の通り,デスモ産出層準は海成層で,夾炭層はその下位層となっています.これらの地層名・層準対比の意味するところは不明です.
1933 年10月の発掘は,なんとフィルムに収められ,“ショートムービー” になっています.どのようなカメラで撮影されたものかは不明です.Kodak のサイトによると,アマチュア用の 16mm ムービーカメラが発売されたのは 1923年,8mm ムービーカメラは 1932年のことだそうです(左写真).こういうカメラで撮影されたということなんでしょうか? オートフォーカスも自動露出も何もなかった時代です.さらには,フィルム駆動用の電動モーターもありませんでしたから,ゼンマイばね方式でしょう.
撮影者も不明です.加藤(2009)には,“橋本 亘氏の撮影” とあります.しかし,橋本さんがデスモスチルス発掘に参加されたのは 1934年だけで,しかも外部参加の学生さんでした.加藤(2009)の記述は誤りということになります.なお,このムービーには北大参加者3人の個人シーンが含まれています.専門の撮影者がいなかったのであれば,交代で撮ったということなのでしょうか?
このムービーはもちろん編集が施されており,さらにチャプターページ・キャプションや簡単な図も加えられています.これらの編集・加工が誰によってどのように施されたものかは不明です.
ちょっと不思議なのは,発掘の成否が不明の段階にあった 1933年10月の時点で動画カメラがおそらく札幌から持ち込まれたのに,もっと大々的な成果が見込まれていた 1934年9月の発掘ではなぜ撮影されなかったのでしょうか? それともどこかに 1934年撮影のフィルムが眠っている??
あともしかすると,発掘の便宜に関わった樺太廰あたりがムービー撮影に噛んでいたのかも?などと勝手に想像しているのですが,もちろん今となっては何も分かりません.
なお,1933年の発掘経緯が詳しく記されている長尾(1934)にも,また両年の状況が詳しく記されている,たかしよいち(1971)にも,ムービー撮影に関してはまったく触れられていません.
このムービーは,1998年の北大博物館開館時の特別展示準備の際に,おそらく第2講座が保管所有していたフィルムから,なんらかのサービスを使って VHS テープにコピーされました.この作業は箕浦先生が仕切ったものだったと思われます.
次に,川村が自宅から持参した(!)VHSデッキを使い,ビデオキャプチャボードを経由して Windows NT4 パソコンに取り込みました.取り込み解像度は 640 x 480 ピクセル(VHS に依存?),29.97 FPS で,Intel Indeo5 コーデックにより 3分10秒の AVI ファイルとして保存されました.このコーデックは(おそらく)現在の Windows11 では再生できません.そのため今回,フリーウェアの XMedia Recode を使用し,MPEG4 AVC/H.264 コーデックで MP4 形式に再エンコードしています.変換時には,コーミング・ノイズを低減するため,deinterlace フィルターをかけています.
この3分ちょっとの動画に収められた映像は,実に興味深いものです.
まず,気屯の旅舎を出発とあり,『気屯館』の玄関を数人の人が出てきますが,その中には警察官とおぼしき制服制帽の人と,ケースに入った猟銃を持った猟師の方が混じっています.後述の長尾ノートには『敷香警察署気屯駐在所』というのが何度か出てきますので,そういう関係なのかもしれません.先頭の中折れ帽にネクタイ姿で傘を持った人物が長尾教授,その次の鞄を肩にかけ黒い帽子をかぶった人が大石助教授でしょう.陽が差して天気が良いのに,長尾教授がなぜ傘を持っているのかは分かりません.この場面には増子氏が見当たらないので,増子氏が撮影者の可能性があると思われます.
その後,荷物を背負った数頭の馬を曳いて一行は進み,かなり大きな川(気屯川?)を馬に乗って難儀しながら渡渉するシーンがあります.気屯川沿いにはトラックも通る大きな道路があるはずなのになぜでしょう? 初雪沢の入り口には橋が無く,気屯川を渡って入るところなんでしょうか? そうだとすると,最後に出てくる馬橇で四号提から運び出したデスモ岩塊はどうやって気屯川の対岸に? いろいろ疑問が湧いてきますが...乗馬して最初に渡っているのは長尾教授のように見えます.
次に初雪沢四号提のシーンになります.堤の前を黒服で宮沢賢治みたいに(?)後ろに手を組んでうろうろしているのは長尾教授でしょう.そのあとに,大人数で河原の石を取り除いて含化石岩塊を探しているようなシーンがあります.法被に鉢巻き姿の人を含めて5人います.その向こうを長い木の竿のようなものを担いだ人が歩いています.上着を脱いで手拭いを尻ポケットに垂らした長尾教授が自ら河原の石を手で除いているシーンもあります.次に,手製の筏を “水落口” に自ら漕ぎ出しているのも長尾教授自身です.かなり水が深いようで,竿を突いて危なっかしく見えます.
喜色満面...おそらく岩塊中にデスモスチルス骨格を視認した時のものでしょう.手袋を履いた(北海道弁)手で野帳を持ち,煙草をふかしながら得意げに哄笑する長尾教授が微笑ましい.容貌や表情は若々しく生気にあふれています.その次に調査かばんを斜め掛けした大石助教授が登場しますが,シャイな人だったのか,はにかんでいるだけです.それから,増子さんが鍋で炊く米を研いでいるところ.周りをうろつく黒い犬は樺太犬でしょうか.このシーンはやはり,一行が現地の造材小屋で寝泊まりしていたことを示すものだと思われます.
次のシーンは,掘り出した岩塊をモッコに乗せて四人で肩に担いで川岸の斜面に手作りされた木道を初雪沢沿いの林道まで運び上げるシーンです.おそらく現地で雇った人夫(差別用語?)の方と思われますが,岩塊は1t程度はあるように思われますので,手に汗を握るシーンです.長尾ノートには『80 貫( ≒ 300 kg)』と書かれていますが,そういう重さには見えません.同じく長尾ノートには『長さ三尺●,幅二尺,厚さ二尺一●尺位』と書かれているので,仮に密度を 2.5 とすると 800 kg 以上になってしまいます.長尾教授が指示のためか,周りをうろうろしていて時々手を出しているのが面白い.
最後のシーケンスは,もう日が暮れた薄暗い林道のシーンです.当時のカメラとフィルムの感度限界らしく,最初は何が写っているのかよく分からなかったのですが,岩塊を木橇に乗せ,馬に引かせている場面です.木橇は手作りで,長尾ノートには『ガンピの根曲がり木二本を台とし,それにエゾ松丸太を二本渡して,針金にてとめたもの』とあります.“林道” ですが,私たちの林道のイメージからは程遠く,石がごろごろした幅が 1 mちょっとの単なる踏み分け道程度のもののようです.
このあと岩塊は二股森林駐在所に安置され,トラックで上敷香に運ばれてそこから鉄路で大泊へ,ということになったようですが,そのへんの映像記録は残っていません.
長尾・大石(1934)に詳しく書かれていますが,1933年5月に某氏により初雪沢で頭骨・脊椎骨の一部が発見され,それが樺太在住の工藤政治氏によって同年7月に長尾教授のもとに持ち込まれました.以下は,後述の長尾ノートの記述を基に,発掘の経緯や長尾教授をはじめとする発掘チームの旅程・行動等を再構成してみたものです.
1933年10月2日,まず大石助教授が単独で先発し,初雪沢の状況を確認したようです.その結果は,10月7日朝に『●●●●●ナガラサイシュノミコミアリ』(●●は判読不能字を示す;以下同)という電報で長尾教授に伝えられ,10月8日夕6:52に増子新太郎氏と共に鉄道で札幌を発っています.稚内着が翌9日朝6時.8時半に雨の中,稚内港を出港しています.大泊着が午後4時.豊原着が午後6時20分で,大石助教授に出迎えられ合流しホテルに泊まったとあります.
翌10月10日は,鈴谷山地西にある樺太神社を訪ね,付近で川岸に結晶片岩を見たとあります.北海道の神居古潭帯相当付加体ということでしょう.そのあと豊原に戻り博物館でデスモスチルス化石を見ています.11日 6:35,豊原を鉄道で発ち沿線の風景を愛でています.山はイワツツジだらけだったとか.この季節に?と思うのですが,そうだったのでしょう.終着駅の南新間(みなみにいとい)着が夕方5時頃.そこから自動車(おそらくハイヤー)で気屯へ.気屯の宿に着いたのは午後10時過ぎになっていました.
翌12日は,朝起きると霜が降りていました.チャーターするはずの荷車が壊れたとかで,終日宿で停滞しています.“脾肉之嘆” と書いていますが...気屯館の2階の窓から見る 気屯の街並みと中央山脈の風景 をスケッチしています.13日は朝にトラックが着き,8時頃出発とあります.途中はエゾマツとカラマツ林だったようです.二股に10時10分着.気温は 12 ℃.動画にある馬はそこから出たということなのでしょうか? 昼1時ころから初雪沢に入り午後4時頃大石助教授と二股に下りたとなっています.“果して掘れるや否や●●●し,或は到底不可能か” とも.
14日から発掘というか探索作業が始まります.まず最初は,四号提の水落口にある大岩塊に取り組んだようです.しかしこれが大変な悪戦苦闘で,あれこれ掘って水面を少し下げたはいいのですが,それ以上どうにもならず,“望みなし” ,“一同元気なく” などのネガティブな記述が続きます.気温は 19.5 ℃と暖かかったようです.これが16日まで続きます.
樺太の10月ですから,19.5 ℃ という気温は北海道民から見るといくらなんでも高すぎるような気がします.ちょっと調べてみたら,現在のユジノサハリンスク(豊原)の 10月の最高気温は 13 ℃ 前後でした.気屯はそのさらに北ですから...しかし長尾ノートにはこのほかにも,10月17日午後1時に 17 ℃ とか,10月20日11時頃 20 ℃ といった気温値が記されています.夜や朝方には 1.5 ℃ とか -2 ℃ とも.これをどう考えたらいいのか,ちょっと no idea です.まさか私の誤読ではないと思うのですが.
もうダメかと思われた10月16日の午後,四号提から数十 m下流の砂礫の中に埋まっていた岩塊を起こして土を落とすと,その中に肋骨・指骨などの骨が入っているのが確認できました.『見えたり,見えたり』...そして『夜は,牛肉大和煮,アスパラガス●,ウィスキーを分けて祝す』とあります.
17日は大石助教授と上流側の地質を調査しています.白亜系の層位学データはこの時のものでしょう.気温は17℃,気圧は 740 mmHg (= 986 hPa) だったそうです.かなり低いです.気圧計もお持ちだったんですね.その夜は 1.5 ℃まで気温が下がっています.
長尾・大石(1934),長尾(1934)や後述する長尾ノートにあるように,この時点で発掘されたのは,四号提下流の沖積堆積物中に埋まっていた小岩塊で,その中には肋骨・前肢骨・肩甲骨が含まれているだけでした.その時点で水落口の下にあった大岩塊には下半身の大部分が含まれることを確認していました.10月18-19日に小岩塊の運搬準備や水抜きポンプの手配をした後,20日から大岩塊の発掘に取り掛かかり,その中に骨格が含まれることを確認しています.しかし,ポンプは結局借用ができず,24日まで寒気(23日・雪みぞれ,24日積雪・730 mmHg,朝は零下)の中悪戦苦闘しますが,その大きさと水面下のため,結局採取を断念し 25日に現地を撤退しています.
大岩塊が発掘されたのは,翌年 1934年9月のことでした.その発掘の経緯については長尾教授の資料にはありませんが,根本(1936)と,たかしよいち(1971)でかなりの程度知ることができます.
『長尾ノート』(川村,2007)は,既に紹介した何枚かの写真と共に “四階実験室” の書棚に保存されていた長尾先生のフィールドノートです.表紙裏には『062 290』という連番らしきものが書かれていますが,この数字の正確な意味は不明です.赤褐色の表紙の左上部には,おそらく鉛筆で書かれたと思われる文字がかろうじて見えます(黒四角部).かすれていて,何と書いてあるのか俄かには読めませんが,スキャン画像のコントラストを上げたり,エッジ処理をしてやると,右上がりの文字で『樺太』と書いてあることが分かります(左図).
この長尾ノートの内容は,野外地質屋には非常に興味深いものと思います.1933-1934年の樺太行程・発掘記録・地質調査記録・紀行文,それに “骨を掘るの記” と題された紹介文の原稿...私は読み進めるにつれて,完全にハマってしまいました.
その内容はすでに上でいくつか紹介しましたが,それ以外にも...堤所有者である土木屋さんの関係者を『小屋にてパインアップルをあけ歓迎の意を表す』とか,“オタスノ森” という先住民族の部落を見学したとか,『車ニテホテルニ帰リテ』とか,『(学生だった)橋本君ハ午後ノ自動車ニテ気屯ニ至リ』とか...どれも,私の中の100年近く前の地質屋や樺太に対するイメージを吹き飛ばす驚きの内容でした.
しかし,この長尾ノートを読み進めるには,難しい “解読作業” が必要でした.なにしろ殴り書きの(地質屋の)手書き文章と図で,おまけに今から100年近く前のものです.その解読は,世代のまったく異なる私には困難をきわめたものでした.したがって,解読の結果が十分な・正確なものかについては,皆目確信がありません.
私が個人的に,この長尾ノート中の白眉と思うのは,右図です.1930 年代前半のことですから,まだカラーフィルムもなく(発明は 1935年),印刷される学術雑誌にはカラー印刷のものなどありません.そういう意味で,こういう彩色図というのは当時,基本的に “どこにも出てこないもの” であるわけです.しかし地質屋ですから,やはり彩色したい...そういう意味で,ぜひここで紹介したいと思い,掲載しておきます.
『●●骨のありし所』(読めません)というのは,1933年10月に運び出した小岩塊,『骨●●』というのは,おそらく 1934年9月に発掘に成功した大岩塊の位置を指していると推測されます.
なお,『中位段丘』という語は,長尾教授は使っていません.上位と低位になっています.しかし長尾教授は,明らかに上位・低位段丘とは色を違えてますので,勝手にこう表現させてもらいました.
※ なおこの彩色図について,越前谷ほか(2017)では『発掘の翌年に長尾と大石が連名で発表した論文の地質図を作成するときの下書きとなった』と書かれています.“論文の地質図” というのは,上に紹介した長尾・大石(1934)の地質図と思われますが,両者はそのスケール・描画の範囲・対象・様式がまったく異なっており,下書きの関係にあるものではないと思われます.野外地質屋はこういう図を,『露頭見取り図』(geologic sketchmap)と呼んでおり,地質図とは別の図形式になっています.
(蛇足:図の上下も逆なのではないかと...図中の『23m』などの数字を基準としたのかもしれませんが,野外地質屋は上流や北を上にしないという場合はケースによってあり得ますが,断面図をさかさまに描くのは絶対的にあり得ないというか.)
長尾ノートにはほかにも,長尾教授の人となりを想わせる興味深いスケッチやルートマップなどがふんだんに含まれています.これらについては,写真アルバムとして収録しましたので,興味のある方はページの最後のリンクからご覧ください.
蛇足ですが,私がちょっと不思議に思うのは...長尾教授のフィールドノートというのは,連番?から類推できるように,もちろんこれ一冊だけではなくたくさんあったはずです.長尾教授は,仙台へ移られる時,何故この1冊だけを北大に置いて行ったんでしょうか? 私も野外地質屋の端くれですので,フィールドノートというのが自分にとってどういうものであるかはよく分かります.ある意味,分身というか...しかもその内容のほとんどは,他人にとって俄かには『意味の取れない』『読めない』,基本的に自分だけに分かるものであるわけです.
もしかすると,北大の登録標本であるデスモスチルス化石の関連付属資料という意味合いだったのでしょうか.しかし,北大の登録標本であっても,引き続いて長尾教授が研究を行うということであれば,転勤先の東北大へ移管ということもできたはずです.その時の北大には,大型脊椎動物化石を扱う研究者はいらっしゃらなかったはずですし.どうなんでしょう?
同じく長尾教授が樺太から発掘し研究されたニッポノサウルス(1934年発見)の記載命名論文が1936年ですので,その二つで大型脊椎動物はもう(自分としては)打ち止めというお気持ちもあったのか,“燃え尽きた” ?...などと勝手に想像しています.もちろん,自身や後継教授となった大石先生の健康状態ということもあったのでしょう.なお,長尾教授のご専門は古生物学と言っても,元々は軟体動物(二枚貝など)で,公表論文の多くはそれに関するものとなっています.
『骨を掘るの記』は,長尾ノートの中にまとまった形で書かれている未完原稿です(左図).長尾ノートの他の部分は,調査中のルートマップや見取り図だったり,札幌から気屯に向かい発掘を行った記録が経時的に書かれているものなので,この原稿部分は少し異質に見えます.なにかの際に少し時間が空いた時,一気に書かれたものかもしれません.記述は,1933年夏に頭骨が持ち込まれたところから,1933年10月13日に初雪沢四号提に向かうところまでで,“或ものは” で突然終わっています.まったくの書きかけがそのままになったようにも見えます.しかし,推敲の跡はたしかにあちこちにありますので,少し不思議です.この原稿が長尾ノートのどの部分に置かれていたものかは,残念ながら手元の記録にはありません.
私の知る限り,この原稿や,それを基にした記述がどこかに公表されたことは無いようです.当時の堅苦しい論文調(例えば; 長尾・大石1934 をお読みください)ではない長尾教授の生のお人柄に近い文章という意味で,非常に貴重なものではないかと思われます.
しかし,その未完原稿をこのページにもろに置くことには,微妙な点があり,少し躊躇があります.なにより,長尾教授がこの原稿をどうするおつもりだったのか分からないからです.プライバシーや著作権ということもありうるでしょう.しかし,一野外地質屋として,どうしてもこれを出したいという気持ちには抑え難いものがありました.長尾教授が亡くなってから 80年以上が経っている今,色々考えた結果,長尾ノートそのままの画像としてではなく,私の解読結果のみを 別ページ として,なるべく元の形に近い形で掲載することとしました.そのページの最初には,解読結果に関わるいくつかの凡例を載せましたので注意深くご覧ください.
この写真は,1938年3月に地鉱教室の学生Nさん(前列中央)の出征(?)壮行会の時に撮られたものです.もちろん原版はモノクロ写真ですが,AI 画像復元ソフトで顔復元(face recovery)を施し,Photoshop の Neural Filter で色付け(colorize)したものです.この色は要するにソフトが勝手に決めた偽物ですが,なにかそれなりに見えてしまうので,お遊びということでご容赦.
で,真ん中右にいらっしゃる長尾教授のお姿というか...樺太でのデスモ発掘からわずか5年くらいしか経っていませんが,あのフィルムの中で豪快に哄笑し,時にダンディーだった面影は無いように見えます.もちろん,それは私の勝手な感想というもので,この写真写りがたまたまだったということかもしれません.しかし,長尾教授が仙台に移られてから病を得て亡くなられたのはこの写真から5年後の1943年のことでした.まだ52歳だったそうです.
※ なお大石助教授は,長尾教授が転出されたあと二代目の教授に昇進されましたが,1948年にやはり病のため在任中に亡くなられています.45歳だったそうです.そういう時代であったということなんでしょうか...
本編のテーマとはかなりかけ離れた話なので,ここにページ外(?)余録として書いておきたいと思います.以下の内容は,何の裏付けもないまったくの私の思い込みです.
長尾教授のご専門というか業績の主体は,『北大古生物学の巨人たち』に収められているように,もちろん古生物学です.キャリアの前半では新生代・中生代の二枚貝に関するものがほとんどですが,後半には湊正雄博士と共著の古生代フズリナ・サンゴ化石の論文が多くなります.デスモスチルス・ニッポノサウルスという大型脊椎動物の仕事は,ちょうどその二つの中間に入った形です.
私が個人的に注目したのは,これらの古生物論文の中にちりばめられたように,構造地質学関連の業績が存在することでした.それを抜き出してみると以下のようなものがあります.
長尾 巧・佐々 保雄 1933:北海道西南部の新生代層と最近の地史 (1).地質学雑誌, 40, 480, 555-577.
長尾 巧,1934:北海道中部の地質構造続報(摘要)(演旨),地質学雑誌,41,489,339-341.
長尾 巧・ 大立目 謙一郎,1938:中部北海道西部の地質構造(演旨).地質学雑誌,45,537,533-534.
長尾 巧,1939:札幌−苫小牧低地帯(石狩低地帯).矢部教授還暦記念論文集 第2巻,677-694.
長尾 巧・湊 正雄,1941:北上上部古生代層中の不整合に就て(演旨).地質学雑誌,48,573,302-304.
Nagao, T. and Minato, M. 1943: Ueber eine bedeutende Diskordanz im jüngeren Palaeozoikum des Kitakami-Gebirges im nördliscnen Honsyu, Japan. Journal of the Faculty of Science, Hokkaido Imperial University, Series 4, Geology and Mineralogy, vol.7, no.1, 29-48.
もちろんこれらはネットで漁ったもので,全体を網羅しているかどうかは分かりません.九州炭田地域の堆積相・堆積盆発達に関係した研究をされたということは加藤(2009)や『北大古生物学の巨人たち』に書かれていますが,そのジャストな業績を見つけることは残念ながらできませんでした.
この文献リストを見ていて気付く・感じるのは,以下の2点です.
1.長尾教授は,やはり幅の広い古生物・地層研究者だったんだな,ということ.それは長尾.大石(1934)や,長尾ノートを見ればすぐに分かります.現在の分化した地質学分野では,古生物は古生物,層序・構造は層序・構造なので,一人の研究者が両方をというのは,なかなか難しいところがあります.そういう意味では,長尾教授はそれが両立できていた(=未分化な)ころの研究者だったんだな,と.ある意味,湊正雄先生も,そういう方々のお一人であったと思います.
2.上の論文リストの最後の論文は,南部北上古生層に関するものです.その意味で,私と長尾先生の距離は案外近かったんだな...と感じさせるものでした.『黒歴史シリーズ』を読んでもらえると分かるように,私の研究者人生のほぼ半分は,その長尾・湊論文で提示されたテーマ(=古生層中の不整合現象)にがんじがらめにされていたわけですので.そのへんが『地質屋たちの肖像』写真に私が共振(resonance)を感じた “深部要因” だったのか,そうだったんだ...とも思えます.どうなんでしょう?
※ この Nagao and Minato (1943) の主要な内容(先坂本沢不整合)は,湊(1942)という湊先生の別の単著論文で,ある意味二重に扱われています.その構成や使われている図・層序データ等は,湊(1942)で使われているものとほぼ同一です.文章は...ドイツ語なのでちょっと私にはアレなのですが,湊(1942)から議論の部分を取って記載重視にしたように見えます.なお,湊先生の卒論が 1939 年です.
長尾教授が東北大学に転出されたのが 1938年,亡くなられたのが 1943年なので,このあたりの論文公表の前後関係は,なにか釈然としないものを感じるのですが,おそらく複雑な事情が存在したのではないかと憶測するところです.湊(1942)には,“印刷中” とあるので,理学部紀要の発行印刷上の遅滞があったのかもしれません.あるいは,恩師である長尾教授への湊先生の dedication ということだったのかも.
このテーマについては,復刻版 Strati_web の中に 1999/09/21 に書いた 古~いアーティクル があります.このページは,それをベースにして大幅に修正加筆したものです.