『樺太気屯初雪澤デスモスチルス發掘紀行』
川村信人(北海道総合地質学研究センター・札幌市清田区在住)
北大図書館で『我等の礦物第5巻第1號』を閲覧し,その中に収められた根本(1936)の発掘紀行文のコピーを入手することができました(右図).発掘参加者による詳細な紀行文が公表されているのは,おそらくこれだけ (※) で,非常に興味深いものです.
※ この紀行文中に,『辛苦の採集記は昭和九年二月號の科學知識に大石先生が書かれた』とあります.しかし,北大図書館で『科學知識』昭和九年二月號を閲覧しましたが...なんと大石助教授の書かれた採集記というのは見つかりませんでした.その代わり,三月號に長尾教授自ら書かれた『樺太国境付近にデスモスチルスを探ねて』という記事が見つかりました.根本さんの勘違いなのか,それとも別に大石助教授の書かれた採集記がどこかにあるのか...分かりませんが,この長尾教授の発掘記については,別ページ の方で紹介したいと思います.
まずこの紀行文の著者は,単に『参加者 根本 要』(!)となっているだけで肩書も連絡先も無く,所属やご職業等,何も分かりません.文中には “自分も一度採集中に木材の流走に出会い,逃げる間もなく峡谷の岩盤にしがみついて難を逃れた”(意訳)という記述があるので,おそらく化石(・岩石?鉱物?)の採集をする方であることだけは確かです.Google 検索でもヒットが無く,産総研の共著関連データベースにもありませんので,アカデミックな位置にいらっしゃった方ではないと思われます.
※ その後,根本さんが1974年に書かれた『「日本竜」の発掘』という文章(国土と教育,第5巻3号)の存在を知りました.それにも著者の根本さんの所属等は無いのですが,巻末編集部注として根本さんの経歴等が記されています.それによると,根本さんは小樽在住の方で,アンモナイト化石などを採集しその標本を北大などに納入販売する業者だったようです.たかしよいち(1971)には,研究室に出入りしていたとあります.後に出てくる長尾教授とデスモスチルス骨格の室内写真を見ると,そういう関係性が垣間見えます.
※ 根本(1974)には,1934年のデスモスチルス発掘の後に根本さんは樺太に残り頭足類(おそらくアンモナイト)化石を探していたのですが,その際に “ニッポノサウルス” の骨格化石発見の端緒を作ったということが書かれています.二つの有名な脊椎動物化石の発掘に根本さんが大きな役割を果たしていたということで,私はそれを初めて知り驚きました.この記事によると,1902年生まれで1974年当時71歳ということですので,おそらくもう亡くなられていると思われます.
紀行文の内容は,1934年8~9月に行われた2回目のデスモ発掘に関するもので,1933年10月の1回目発掘については『寒気と降雪其他の事情により断念』と簡単に触れられているだけで,あっさりとスルーされています.根本さん自身が参加してないので当然ですが.
樺太への船上(稚内大泊連絡船宗谷丸)で撮影された参加者集合写真(右図;根本,1936;第1圖)を見ると,長尾教授と同じようなネクタイ背広姿です.大石助教授は開襟シャツ姿,橋本さんは探検家みたいな半ズボンとシャツ姿です.宮本さんは写真のキャプションに “宮本” と書かれていますがフルネームは不明です.文中にもお名前が無く,“本職の石屋” と書かれているだけです.
根本(1936)は,紀行文と銘打っているだけあって,当時の南樺太の自然・産業・風土などのさまざまなことを仔細に記録しており,現在のわれわれにとって非常に興味深いものです.
『地質屋たちの肖像』本編では,長尾・大石(1934),“長尾ノート”,それに保管されていた写真を元にいろいろと記述してきましたが,その中には当然,想像・推測した部分がありました.それらの一部は,根本(1936)の記述によって明確になったものがあります.
・ウィスキーは,やはりというか,長尾教授が持参したものだった.
・四号提脇の “造材小屋” は,『堤番が住む丸太造りの空き小屋』であった.
・その小屋に,やはり皆が泊まって発掘作業をしていた.炊事係は増子氏.
・気屯まで夜走った自動車というのは,やはりハイヤーのことであった.
・・・等々.
あと,デスモ発掘の本題とはあまり(・なにも)関係はありませんが;
・豊原のホテルは『花屋ホテル』という.
・“博物館” というのは,樺太廰立博物館のことであった.
・気屯館は,鉄道も通っていない田舎では信じられないような立派な旅館であった.
・鉄道終点の新間-気屯間の交通には『乗合自動車』があった.
・敷香には『近代的なレーヨン工場』があった.
・当時の南樺太には先住民集落があった.
・・・等々.
私から見るとちょっと不思議なことがあります.このアーティクル全体の冒頭に紹介しそのテーマとなった写真,デスモ発掘写真の中でダントツに attractive なベストショット『造材小屋の四人』=地質屋たちの肖像 は,根本さんの撮影だと推定されますが,根本(1936)の中には掲載されていません.初雪沢四号提の脇にこじんまりと立っていた 造材小屋 のチャーミングな写真もありません.もちろん,それは “スペースの都合上” ということなのでしょう.
しかし,『造材小屋の四人』の写真は,1936年の発掘紀行では,なんらかの理由・観点から取捨選択されたような気がします.個人的な想像ですが,スペース上の制約ということはもちろんあるかもしれませんが,酒瓶の写っているような写真は,当時の価値観(対帝大教授!)では NG だったのかもしれません.整った集合写真が2枚も掲載されていることも,そういった当時の感覚というかそういうものを示しているのかも?
左の写真(根本,1936;第六圖)は,おそらく他のどこにも出ていないものと思われます.こんな良い写真がなぜどこにも出てないのでしょうか? ちょっと信じられませんが,少なくとも私は初めて見ました.
間違いなく北大理学部地鉱教室のどこかの部屋だと思われますが,机の上に広げられたデスモスチルスの骨格を腕を後ろに組んだ長尾教授が愛おしそうに(?)見ている写真です.長尾教授の容貌は若々しく見えますが,少し頬がこけているようにも.写真の印刷が不鮮明なので,そのせいかもしれません.
骨格は大きな机の上にそのまま直に並べられています.手前側にある塊は,おそらく頭骨を裏返しにしたものだと思われます.その左は肩甲骨か? 机の右側には,2段に重ねられた “ズリ箱” に入った小さな破片が見えます.岩塊からの取り出しの過程で出てきたものと思われます.骨格への光線の当たり具合は左後ろからなので,その方向に窓があったのでしょう.
写真の撮影日時は不明ですが,根本(1936)には,1934年9月の発掘後,岩塊から骨格を取り出す作業は石工により1ヶ月ちょっと(!)で完了したと書かれているので,1934年秋~冬頃と思われます.
この写真がどこで撮影されたものか,地鉱第二講座の末裔の一人(?)として興味があり,ちょっと考えてみました.この部屋には,たがいに直交する向きにドアが二つあり,左のドアは開け放たれています.この風景はどこかで見たことがあるみたいな...?
右の写真は,『地鉱教室第二講座教授室』の中を,その南西隅から見たものです.もちろん私が教授室の内部を写真に撮れるはずはないので,これは 2002年 6月に地球惑星科学教室が理学新館へ移転した後の空き部屋(廃墟)に勝手に忍び込んで撮ったものです.この部屋は,私が地鉱教室に入った時は湊正雄教授室でしたが,その後,加藤誠教授・岡田尚武教授が2代にわたって居室としていたところです.
で...直交した2枚のドアと言い,壁際の小さな陶器洗面台やその横の柱(パイプルーム?)の出っ張りと言い,良く似ています.柱と壁にある水平の境の高さが違っているような気もしますが,ほとんどここなんでは?...と思ったのですが,よく見ると,それらの左右の位置関係が逆で合いません.やっぱり違うのか...しかし,思いつきました.『この写真,“裏焼き” なのでは?』.実は発掘写真の中にも,明らかな 裏焼き があるのです.
そこで,第六圖の写真の左右を反転させてみると左のようになります.長尾教授の左奥には,明らかに何か文字を書いたビラが見えますが,写真が不鮮明・低解像度で読めません.それ以外にも,反転状態を確認できるようなものはありません.長尾教授の背広のボタンがちょっと気になりますが,私には分かりません.あと,右側のドアの蝶番(・開き方)の向きはやっぱりこれでは逆かも.しかし,ドア・洗面台の位置関係はばっちりです.光の当たる向きも右後ろの窓からになり,一致しています.
古生物学的な観点でちょっと見ると,仰向けに見える頭骨の横の肩甲骨らしい骨は片側にしかなく,肋骨の数なども非対称に見えるので,骨格の産出・復元記録と突き合せれば左右が分かるかもしれませんが,私には無理です.さてどうなのか...?
あと “裏焼き” 以外のもう一つの可能性ですが,この教授室の廊下を隔てた向かい側には,実験室がありました.私はその部屋が窓のない “電顕室” に改装されて廊下側のドアが密閉された以降しか知らないのですが,その部屋にもこのように直交したドアが2枚あり,教授室とは廊下を軸として左右対称になっていたと思うので,元の写真と位置関係は合いそうな気もします.しかし改装以前はどうなっていたか分かりません.考えてみると教授室の机の上に(たとえ一時的にせよ)大きな骨格を並べるというのは,少し不自然な気もするので,やっぱり実験室の方なのかも.結局よく分からないわけですが.