『デスモスチルスを探ねて』

川村信人(北海道総合地質学研究センター・札幌市清田区在住)

長尾(1934)『デスモスチルスを探ねて』

 “探ねて” というのは,最初どう読むか分からなかったのですが,“たずねて” ということで,1950 年代ころまで使われていたようです.当時の小説等に用例がありました.広辞苑によると『探=たずねる』となっていますので,“訪ねる” より探索・探求といった意味をより含んだ言葉ということのようです.


科學知識昭和九年三月號表紙の一部.“裏焼き” ではない.

 前置きはこのくらいにして,長尾(1934)『樺太国境付近にデスモスチルスを探ねて』(科學知識,昭和9年3月号)について書いていきたいと思います.この雑誌は,表紙のデザインとか,他の記事の内容とかを見ると,多少(かなり?)“国策的” な感じを受けます.そういう時代だったのかも.

 最初に明確にしておきたいのは,この文章が掲載されたのは 1934年3月号ですので当然,1934年9月の第2回発掘の前に書かれたということです.それについては『今夏の採集品と併せて近く公にする機会があると思う』となっています.1933年10月の発掘で取り残したデスモスチルス化石の “大岩塊” の採取に関して完璧な自信を持っていたということでしょう.

 なお,この文章は本編に書いた長尾ノート内の『骨を掘る記』を元にしたものではないということが読むと分かります.内容はもちろん同じようなものですが,両者に共通する表現はほとんど見当たりません.やっぱりあれは,完全にボツになったものなんでしょうか?


発掘メンバーの写真

長尾(1934)の挿入写真.初雪澤にて.

 左写真は,この記事の唯一の挿入写真で,四号提下流の河原で撮られたものです(左が上流方向).一番左が長尾教授,一人置いて黒い帽子をかぶっているのが,作業服姿ですが大石助教授と思われます.ちょっとヤンキーっぽいというか? 長尾教授のポーズがシャーロックホームズみたいで,なかなかダンディーです.
 印刷のアミが至極粗くて,非常に不鮮明です.写真右側が白くなっているのは何なんでしょうか...もしかするとフィルムの扱いをミスった感光部なのかも.この時の北大からの参加者は3人だけなので,撮影者は増子さんなのかもしれませんが,不明です.
 北大参加者以外の作業員の方は4名写っています.たかしよいち(1971)の記述では,この発掘時に化石持ち込み者である工藤政治さんがいらっしゃったはずですが,この写真のどれが工藤さんなのか,写真説明に人名表記が無いため,まったく分かりません.私の勘では,風貌・貫禄から見て長尾教授の右のスコップかツルハシを持った方がそうなのではないかと...どうなんでしょう?

 これ以外に,グラビア印刷が別に1ページありますが,その2枚は室内で撮られた化石骨格写真で,残り一枚が,初雪澤四号提の写真です.それは,本編や写真アルバムで紹介した写真『02.四号提』とまったく同じものでした.


記事内容から分かること

 この記事は3ページですが,文章内容は非常に濃く,私にとっては初めて分かったということがいくつかあります.

 まず,1933年5月に樺太の工藤政治氏によって持ち込まれた頭骨ですが,『結局或価格で北海道帝国大学に買取ることになった』とあります.いくらで買い取ったかは書いていませんが,私の勝手な想像では当時の 1,000円(現在換算50万円)程度ではないかと思うのですが,どうなんでしょうか.いくら帝大でも予算に限りはありますから.これについては,たかしよいち(1971)には,50円(3万円相当)と記述されていますが,その出典は不明です.

 発掘に際しては,学術振興会に費用申請をしていますが,それについて長尾教授はかなり逡巡というか,悩んでいます.『若し該骨骼と稱するものが・・(中略:意訳-デスモスチルスの骨格で無かったら)・・私等が國家の費用を冗費するの譏り(そしり)を免れぬであらう』と書かれています.要するに『もし空振りになったらあれこれ言われて大変だ』ということです.私の感覚では,そういうのは 100%当たる保証は常にあるわけではないので,空振りだったらしょうがないと思うのですが,長尾教授は発掘の成算を確認するために,大石助教授を先発させています.しかし,大石助教授の出発が10月2日,その上で骨格採取の見込ありという連絡が入ったとして,それから学振に申請したのではまったく間に合いません.おそらく申請とその採用は既に済んでいて,発掘が空振りだったら経費を辞退する,といったことだったのではないかと推察します.
 大石助教授は10月2日に先発したわけですが,現地確認だけではなく,樺太廰鑛務課に出頭して,さまざまな便宜を取り付けています.“鑛務課” とあるだけですが,国会図書館で調べてみたところ,『殖産部鑛務課』ということのようです.

 大岩塊の採取は結局 1933年の発掘では断念したわけですが,小岩塊を採取した後も悪戦苦闘しています.その際,水落とし口の水位を下げるために『四号提の一部を破壊し水路をバイパスする』という大作業を行っています.もちろん勝手に壊したわけではなく,所有者の越智組に交渉し,担当者から快諾を得ています.これで水位を 1 m 下げることに成功し,下半身骨格の存在を確認できたわけです.
 なおこの “四号提部分破壊” は,根本(1936)では触れられておらず『大岩塊は下流側の浅瀬に流されており採取は容易であった』と書かれています.しかし,たかしよいち(1971)には『1934年にも 1933年と同じように行った』と書かれており,その様子を示す写真が2枚掲載されています.このへんの詳しい経緯は不明です.



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