古生代島弧としての南部北上帯
South Kitakami Terrane as a Paleozoic Island Arc
川村信人(北海道総合地質学研究センター)
※ 本アーティクルは,北海道大学理学部・理学研究科在学時に行った検討を元にしたものです.
私が南部北上帯世田米地域下部石炭系の研究を行ったのはおもに 1970 年代後半,正確には 1974 - 1981 年のことで,世田米地域に調査目的で訪れたのは 1985 年が最後です.その層序学的な成果は川村(1985a,b,c)に,形成環境を含めた総括的なものを川村・川村(1989a,b)として発表しました.その後,火山岩類についての報告を書いていますが(川村,1997),これは正式な論文業績ではありません.
川村信人(1985a)南部北上帯世田米地方の石炭系岩相層序,その1 世田米亜帯下有住地域.地質雑,91, 165-178.
川村信人(1985b)南部北上帯世田米地方の石炭系岩相層序,その2 世田米亜帯横田地域.地質雑,91, 245-258.
川村信人(1985c)南部北上帯世田米地方の石炭系岩相層序,その3 大股亜帯加労沢~生出地域.地質雑,91, 341-352.
川村寿郎・川村信人(1989a)南部北上帯の石炭系(その1)-層序の総括-.地球科学,43, 84-97.
川村寿郎・川村信人(1989b)南部北上帯の石炭系(その2)-構成岩類の形成環境-.地球科学,43, 157-167.
川村信人(1997)南部北上帯世田米地域の前期石炭紀島弧型火山岩類の産状と化学組成.川村信人・岡 孝雄・近藤 務編「加藤誠教授退官記念論文集」,77-92.
何を言いたいのかというと,以下に書くことは『すべて当時のレベルのデータに基づくものである』ということです.“当時” というのは今から少なくとも 40 年前です.地質調査や記載岩石学のレベルはほとんど変わっていないと思われますが,化学分析手法(や考え方)は微量元素を含めて大きく expand していますし,『同位体組成・年代』については,言わずもがなです.それらは以下ではまったくフォローされていません.
さらに...当時のデータ・資料は,デジタル化された形では手元にほとんど残っていません.私が研究資料をデジタル化し始めたのは 1990 年代に入ってからで,写真・画像・図を含めてすべてデジタル化されたのは 21 世紀に入ってからでした.なにしろ当時は,写真はフィルムで撮影し,計算は電卓でグラフは方眼紙に手で描き,図はインクとペンで紙の上に描き,文章は鉛筆下書きでペンで清書だったのですから.これも何を言いたいのかというと...以下で使用する画像の多くは当時のものを無理やりデジタル化したもので,そのクォリティは(よく見ると)絶望的なものです.
最後に,言うまでもないことですが,『新期に開削された(林)道』というのは地質基礎情報の宝庫です.私の調査は 1980 年代で終わっていますが,現在の国土地理院地図で見る限り,それ以降に開削されたと思われる規模の大きな林道がいくつかあります.
・火の土地域:
住田町横川上流~金沢間
・下有住地域:
住田町十文字~尻高沢間 住田町天風~下柏里間
・横田地域:
陸前高田市平貝~三の戸間(市道?) 陸前高田市小坪沢北支流 陸前高田市舞出の沢
・生出地域:
陸前高田市生出峠~清水川間
この他に,Google Earth で見ると随所に大規模な伐採地が出現しています.これらの場所でどんな新たな地質情報が得られるのかは研究者として非常に気になることですが,もちろん再訪・再調査などまったく望むべくもない話です.
本編を始める前に,これらの点をおことわりしておきたいと思います.
南部北上帯古生層全体の分布や岩相については,その詳細は省略します.というか,私にはそれらを網羅的に説明することは到底できません.
右に示したのは,南部北上-根田茂-北部北上帯の広域的な地質分布の概略を示したものです.古生代~中生代ジュラ紀までの地層の内部と上位に,白亜紀になって深成岩体と島弧火山岩類がオーバーラップして形成されたことが分かります.
黒色の点滅部が,南部北上帯石炭系の分布です.分布域は南部北上帯のほぼ中央部に東西に広がっていますが,ペルム系やそれ以降の地層に比べて非常に狭いことが分かります.
南部北上帯は,全体が南にプランジしたメガ複向斜状になっていて,石炭系はその底部に位置しています.遠野花崗岩体西側の大迫地域の古生層分布はそれと非調和的で先石炭系の地質構成も共通性が無く,『別地質単元』のようにも見えますが,その tectonic implication は,私にはいまだによく分かりません.
南部北上古生層の地質構成を一発で説明しきった図というかスキームを見つけることができず,しょうがないので非常に古いものですが Kawamura et al. (1990) に使用した構造層序図から切り取って編集してみたのが右下の図です.
Kawamura, M., Kato, M. and Kitakami Paleozoic Research Group (1990) Southern Kitakami Terrane. In: Ichikawa, K. et al.(eds.), Pre-Cretaceous Terranes of Japan (Publ. IGCP Project No.224), 249-279.
簡単に要約すると,南部北上帯 “主部”(無定義:日頃市-世田米付近を雑駁に意味する)では,氷上花崗岩類を不整合に覆う下部シルル系にはじまる島弧型火山岩+堆積岩類が分布します.シルル紀~前期デボン紀の火山活動は珪長質で一部に陸成溶結凝灰岩を含んでいます.
下部石炭系は浅海成層を主体とし,その中に挟在する火山岩・火山砕屑岩を特徴とします.火山岩は後に述べるように安山岩質のものを欠き,玄武岩質+珪長質というバイモーダルな特徴を示しています.
前期石炭紀の終わり(late Viséan)になると堆積盆はほぼ一様に炭酸塩堆積場に変化し,サンゴ化石を含む黒色石灰岩層が堆積しました(鬼丸層).
石炭系の上位には “世田米褶曲” による南部北上帯古生層中で最長のハイエタス が存在しますが,そのテクトニックな意義はいまだ明確ではありません.
注)本アーティクルで使用している『前期石炭紀』『下部石炭系』は当時の表現で,現在はそれぞれ『石炭紀ミシシッピ世』『石炭系ミシシッピ統』と呼ぶべきですが,あえてそのままにしています.
以下の記述を支える基礎データ:地質図・断面図・柱状図等の資料は,別ページに 復元資料ライブラリ として掲載しました.下部石炭系の層序や分布の詳細はそちらでご覧ください.
南部北上帯・世田米(せたまい)地域の下部石炭系は,分布の東側と西側でその岩相層序に大きな差異があり,川村・川村(1981)はその点を根拠として前者を『世田米亜帯』,後者を『大股亜帯』に区分しました.
川村信人・川村寿郎(1981)南部北上帯下部石炭系層序の再検討.構造地質研究会誌,No.26, 31-41.
右図の左に示したのは,両亜帯の分布・範囲です.両者の境界については,川村・川村(1981)では “小股断層” としていますが,必ずしも断層としての実体があるわけではなく,大部分はペルム系分布によって不明瞭になっています.加労沢西方では狭い向斜分布を示し一部不整合関係で載るペルム系が両亜帯の境界となっています.
※なお,この図は川村(1985b)で示したものですが,小股断層の南延長部・雪沢上流部に下部石炭系の狭い分布が描かれており,世田米亜帯の西縁とされています.しかし具体的な資料は提示されておらず, 他の地質体を誤認した可能性 があります.いずれにせよその実体・真相は不明ですが,仮にこれが尻高沢層の分布ではなかった場合,世田米-大股亜帯の境界は大股付近以南ではペルム紀以降の地層に覆われてしまい,まったく不明ということになります(グレーで示した部分).それでも,横田地域と生出地域の間に境界があることには変わりありません.
両亜帯の石炭系の模式層序を上図の右に示します.世田米亜帯では,火山岩に富んだ部分は,下位から尻高沢(しったかざわ)層・有住(ありす)層・大平(おおだいら)層に三分されます.その上位に黒色石灰岩からなる鬼丸(おにまる)層と灰色石灰岩を主体とする長岩(ながいわ)層が重なります.
大股亜帯の石炭系は,下位の加労沢(かろうさわ)層と,灰色石灰岩・火山岩からなる仙婆巌(せんばかや)層に二分されます.
注)『仙婆巌』の読みは私の記憶では “せんばがや” で現在の国土地理院地図でもそうなっています.これが川村・川村(1981)や川村(1985c)で “かや” とされた理由は不明です.可能性としては,①命名論文(永広,1977)でそうなっている,②当時の地形図で濁点が等高線等にかぶさって見えなかった,などが考えられます.
この層序模式図を見ると,加労沢層は鬼丸層との関係や岩相層序に多少の違いはあっても,結局は世田米亜帯の鬼丸層+大平層と考えてよいようにも見えてしまいます.しかし,以下のような大きな相違点があります.
①鬼丸層: 大股亜帯には『サンゴ化石を多産する黒色石灰岩層からなる累層』という意味での鬼丸層が存在しません. “サンゴ化石を多産する黒色石灰岩層” は存在しますが,あくまでも互層中の挟みであり累層としての層序的まとまりを形成しないので,それを含む全体を『加労沢層』と一括しています.この点は,鬼丸層と下位層の層序的関係について重要な示唆を含んでいます(後述).
注)川村・川村(1981)では,この黒色石灰岩を含む部分を仙婆巌層に入れていますが,川村(1985c)で,加労沢層上部層と再定義されています.
②玄武岩質火山岩類: 岩相に大きな違いがあります.世田米亜帯の有住+大平層では特徴的な玄武岩質ラピリストーン層が厚く分布しています.これに対して大股亜帯加労沢層では玄武岩角礫岩を伴う輝石玄武岩溶岩を主体とし,特徴的な赤紫色玄武岩質火山岩を伴います.また,後述する全岩化学組成において両者は大きく異なる組成特徴を示しています.
③火山豆石: 加労沢層中には,世田米亜帯には見られない『含火山豆石珪長質凝灰岩』が含まれています(後述).その意義は必ずしも明瞭ではありませんが,加労沢層だけに見られる特徴となっています.
これらの点から,大股亜帯の加労沢層は,世田米亜帯の尻高沢+有住+大平層とは別の層序区分ユニットとして扱うのが妥当と考えられます.なお加労沢層の下限は不明です.
世田米亜帯の下部石炭系の層序区分は,湊(1941)や武田(1960)による従来の層序区分と大きく異なった点があります(左図).
湊 正雄(1941)岩手縣氣仙郡世田米地方の下部石炭系に就て.地質学雑誌,48, 469-490.
湊 正雄・橋本誠二・陶山国男・武田裕幸・鈴木淑夫・木村昭二・山田一雄・垣見俊弘・市川輝雄・末富 宏(1953)世田米地方の石炭紀層の層序と化石帯.地質学雑誌,59,385-399.
武田裕幸(1960)岩手県気仙郡下有住村南部の古生層.地質学雑誌,66, 689-699.
この説明は,かなり複雑・難解?なものになってしまいますがご容赦.まず,武田(1960)で用いられている岩相単位(“group”=“層群”)は,もともとは湊(1941)で用いられていたもの(Ⅰ~Ⅵ)で,湊ほか(1953)ではⅠの下位に-Ⅰ・-Ⅱ・-Ⅲが加えられています.武田(1960)の岩相単位は,川村(1985a)とほぼ同じで,妥当なものと言えます.
※ この “層群” はもちろん,現在の層序区分で用いられる『層群(Group)』=累層(Formation)の上位カテゴリーのことではありません.当時の湊正雄先生学派で使われていたこの用法は,まったく不適切なものだったと思いますが,ここでは突っ込まないことにします(いまさらなので).
ところが武田(1960)では,これらの岩相単位(の一部)に対して『統階区分』=年代層序区分(Time-Stratigraphic Division)が適用され,その結果として,Ⅲ “層群” の中に有住統・大平統の境界が設定されています.つまり,当然のことですが岩相区分と統階区分は一致していません.その根拠は,湊ほか(1953)に示されている腕足類化石分帯から来ており,彼らの D1 と E0 帯の間に Tournaisian と lower Viséan の境界,つまり有住統十文字階と大平層舞出階との境界があるとされたわけです.その生層序学的妥当性は私には判断できません.
しかしこの区分は湊ほか(1953)自身でも述べられているように,岩相層序と年代層序を組み合わせたハイブリッドなものです.それに加えて,現在では “大平統・有住統” のような『ローカルな年代層序区分』は行わないようになっていて,川村・川村(1981)および川村(1985a,b,c)やこのアーティクルでも,そういった層序区分は行わず,すべて岩相層序区分(Lithostratigraphic Division)となっています.
注1) ここで “下部石炭系” と呼んでいる部分についての現在の年代層序区分は,International Chronostratigraphic Chart にあるように,湊ほか(1953)・武田(1960)に示されているものとはかなり異なっています.① Tournaisian, Viséan は『統』から『階』に “格下げ” された.② “下部石炭系” に相当する部分は『ミシシッピ統(Mississippian Series)』とされた.③ “Etroeungtian” は廃止され,Tournaisian 階に統合された.④ミシシッピ統の最上部に Serpukhovian 階が設けられた.
Serpukhovian に相当する部分が鬼丸-長岩層のどこにあるのかは no idea です.
参考までに,Tournaisian の始まり(=石炭紀の始まり)は 358.9±0.4 Ma,Viséan は 346.7±0.4 ~ 330.9±0.2 Ma とされています(Chronostratigraphic Chart 2023/04 版).
注2)このアーティクルで使用している,鬼丸層あるいはその相当層についての “黒色石灰岩” という表現は,かなり雑駁・曖昧なものです.
露頭表面で見える石灰岩の色が文字通り黒色というわけではなく,例えば私の調査ルートマップにはすべて dk. gy. ls.(暗灰色石灰岩)と記載されています.また,すべてが黒色~暗灰色というわけでもありません.
それに加えて,おそらく炭酸塩岩石学的に単一ではなく多様な岩相を含んでいると推察されます.単なる通称・一括表現ということでご了解ください.
なお,鬼丸層石灰岩がなぜ黒色なのかについては,私の知る限り岩石学的に詳細に分かっているわけでは必ずしもないようです.普通に考えられることとしては,①炭質物を多く含む,②微粒・粉状の黄鉄鉱を多く含む,というものがあります.湊(1941)などでは,特に根拠は示されていませんが①の説明が使われています.①②のいずれも堆積時の有機物関与ということになるでしょう.その他にちょっとトリッキーですが,③石英粒子を多く含むため,というものもあるようです.どこで読んだ・聞いた話か出典は分かりません.石英は劈開を欠くため粒子の内部反射の弱い鉱物です.流紋岩などで石英斑晶が黒く見えるのはそのためです.①②③のいずれにせよ,それらを裏付ける岩石(・化学)的なデータがあるのかどうかまではフォローできていません.
大船渡市・日頃市(ひころいち)地域は世田米地域と並んで南部北上帯下部石炭系の重要な分布地域(=日頃市亜帯)です.これらの全体的な層序スキームを考えるためには,日頃市亜帯の層序を含めて鬼丸層(・相当層)と下位層との関係や層序区分についての捉え方が川村・川村(1981)や川村(1985a,b,c)でどのように変わったのかを理解する必要があります.
右に示したのは,川村・川村(1981)および川村(1985a,b,c)での層序区分と,湊(1941)・武田(1960)による従来の層序区分との違いを模式的に表現したものです.
重要な点は,①鬼丸層と下位層との関係,②尻高沢層(川村・川村,1981)の層序的扱い,の2点です.この二つは相互に密接な関係があります.
湊・武田スキームでは,鬼丸層は下位の地層と不整合関係にあり,大きな浸食ハイエタスがあるとされていました.それを引き起こした構造運動は “清水(しず)褶曲” と呼ばれました(湊,1942).下位の地層は日頃市・有住・大平層の順に累重しており,日頃市地域では有住・大平層が浸食で欠如し,日頃市層が直接鬼丸層に不整合に覆われているということになります.
湊 正雄(1942)比較構造論より観たる北上山地古生代構造史.地質学雑誌,49, 251-252.
しかし,鬼丸層と下位層との関係は,世田米亜帯では下に詳述するように明確な整合関係です.これは日頃市亜帯でも同様です.大股亜帯加労沢層上部層では,鬼丸層相当の石灰岩層が互層中に挟在しているだけで,鬼丸層という累層単位そのものが存在しないくらいです.そうなると,世田米亜帯における有住層の下位の地層を日頃市層とすることはできません.川村・川村(1981)はこの最下部の地層を尻高沢層と命名しました.
なお,石炭系の最下部は世田米・日頃市亜帯ともに下位層を不整合に覆っていますが,その正確な年代は分かっておらず,両亜帯で同時的なものかどうかも分かりません.
これらの下部石炭系の堆積環境についてはどうなのでしょうか? 実は,もっともポピュラーな砂岩泥岩互層については,それを考える材料(露頭写真・サンプル写真 etc.)がほとんどありません.川村(1985a)には “typical field occurrence of the alternation of sandstone and slate” というキャプションで露頭写真が1枚だけ掲載されていますが,その記載はありません.
右の写真は,私のライブラリにある砂岩泥岩互層の岩相を示す唯一の露頭写真です.尻高沢層のものですが,他の地層については1枚もありません.
この地域の露頭自体の悪さということもありますが,端的に言えば 1970-1980 年代あるいはそれ以前の南部北上古生層研究者には,私も含めてそういう問題意識(見る目)が無かったということでしょう.
この露頭写真に限って言えば,砂岩は著しい平行~低角斜交ラミナを示しています.一部 wavy にも見えますが,構造変形の結果かもしれません.砂岩は石灰質の可能性もあります.トラクション堆積物であり,浅海相とも思われますが,葉理の卓越するタイプ(Tb-cとか)のタービダイトの可能性もゼロではありません.いずれにせよ露頭あるいはサンプルの記載はなく,判断は不可能です.
川村(1985a)の考察部には,“尻高沢層の各岩相(特に泥岩砂岩互層)の堆積学的検討(中略)が必要であろう” と書かれていますので,問題意識自体はあったのかもしれませんが,もちろん検討は行われませんでした.その後誰かが検討したという話も聞きません.この点が,南部北上帯の下部石炭系だけではなく,古生層全体の堆積環境・堆積構造場を考察する上での大きなネックとなっています.
※ 後述するように,火山砕屑岩については川村(1997)で多少の堆積学的記載と考察が行われました.またおもに鬼丸(・相当)層の炭酸塩岩については川村寿郎氏による検討があり,川村・川村(1989b)に紹介されています.
(2024/02/26 公開)(2024/04/16 加筆)
南部北上帯石炭系基底の不整合については,大久保(1951)に日頃市地域(日頃市亜帯:川村・川村,1981)における非常に詳しい記載があり,その不整合をもたらした構造運動は『気仙褶曲(Kesen Folding)』と命名されています.しかし一方で,世田米亜帯の石炭系の基底不整合と先石炭系の存在は知られておらず,川村(1985a)による言及が最初のものです(下注.
なお武田(1960)は,おそらく湊正雄先生の学派によって報告された唯一の世田米亜帯石炭系の詳細地質図であると思われますが,その調査地域には石炭系最下部~基底は露出していません.
大久保雅弘(1951)日頃市統および先日頃市世の不整合について.地質学雑誌,57, 195-209.
注)湊ほか(1953)には,“世田米長岩澤” に石炭系の最下部が露出しているとされていますが,基底礫岩まで存在するのかどうかは彼らの第1圖・柱状4では不明瞭で,かつ日頃市地域基底部とは対比線でつながれていません.また『長岩澤』(not 大船渡市日頃市町長岩)がどこにあるのかは,論文中に地名インデックス図が無く,もちろん国土地理院地形図にもないので,もはや調べるすべはありません.どなたかの第2講座卒論で見かけたような記憶もあるのですが...
川村(1983)によって住田町奥火の土地域から世田米亜帯で最初となるシルル系の分布が報告されましたが,そのインデックス図にはシルル系分布周辺に “デボン系” の分布が図示されています.その根拠は,既に完了していた奥火の土から小股にかけての下部石炭系地質調査で,その結果は川村(1985a)としてのちに報告されました.
石炭系の下位に存在する地層が本当にデボン系なのかは,古生物学的・岩相層序的な証拠を欠いており,川村(1985a)では “未区分デボン系” とせざるを得ませんでした.とはいえ,この地域に世田米亜帯の他の場所には露出していない石炭系基底部が露出することは確かです.以下では,この貴重な石炭系基底相と先石炭系との不整合について紹介したいと思います.
川村信人(1983)南部北上山地のシルル系奥火の土層と先シルル紀氷上花崗岩体.地質学雑誌,89, 99-116.
右に示したのは,奥火の土南方~小股北方にかけての地域の地質図・断面図・柱状図です.下部石炭系尻高沢層基底部は,小仁倉沢~小股沢最上流部からその北側尾根および奥火の土から南西に入る無名沢の最上流部斜面などに分布しています.普通の密度の地質調査ではなく,『斜面歩き』等を総当たりで行う当時の私の調査方式(下のルートマップ参照)でやっとこれらを捕捉できたということだと思われます.
なお,柱状図の取得位置は右が小股沢上流の転倒向斜部,左がルートマップ図の範囲ですが,地質図とはあまり良く合致していません.なんらかのミスによるものかは,いまや不明です.
未区分デボン系の北にはシルル系石灰岩が分布しており,全体として複背斜構造をなしているものと考えられますが,調査によって推定された構造は非常に複雑で,はっきり言ってよく理解できません.
柱状図左を取得した部分のルートマップ(見取り図)を右に示します.これを見るとお分かりのように,下部石炭系基底部と未区分デボン系は,直接に接しておらず,不整合露頭を実際に観察できたわけではありません.断層境界と同じように,あくまでも推定ということになります.川村(1985a)では,下部石炭系とデボン系の層理面に斜交関係があると書かれています.たしかにデボン系の傾斜の多くは東傾斜で,下部石炭系の傾斜は西傾斜なので,単純に考えるとほぼ垂直に近い傾斜不整合になるのですが,いずれせよこれらの走向傾斜は変化に富んでいますので,有意なものかは不明です.
デボン系は,珪質泥岩・砂岩と細粒珪質凝灰岩の互層からなります.岩相的には日頃市亜帯の下部~中部デボン系大野層・中里層に類似する点があります.残念ながらその露頭写真等は手元のライブラリにはありません.
下部石炭系基底層は,礫岩・礫質砂岩・珪長質粗粒凝灰岩・“赤紫色凝灰岩”・玄武岩溶岩からなっています.粗粒凝灰岩にはユータキシティック構造を示すものがあり,陸上火砕流堆積物の可能性も考えられます.今のところ,基底層中に海成層と考えられるものは見出されていませんが,約 120 m 上位の層準には不純石灰岩が挟在しますので,少なくともその層準は海成層です.
下部石炭系尻高沢層の基底礫岩を右に示します.これらの “露頭” は,いずれも尾根近くに散在しており,大転石あるいは “半露頭” の可能性がありますが,そうだとしても,その位置・産状から,ほとんど源位置を保ったものと考えられます.
砂基質で淘汰の悪い中礫・大礫岩で,円礫も含みますが円磨度は一般に低く,一部に斜交層理を示す砂岩レンズを含みます(右写真下).おそらく河川成礫岩層と推定されます.礫種リストを以下に示します.
・珪長質火山岩類: 珪長質凝灰岩・珪長質火山岩・溶結凝灰岩・流紋岩
・苦鉄質火山岩類: 玄武岩質岩・ドレライト・ヒン岩質岩
・堆積岩類: 泥質岩・凝灰質砂岩
・深成岩類: 花崗岩質岩・アプライト・文象斑岩
・その他: 再結晶珪岩
これらの下部石炭系(尻高沢層)基底部の形成環境・テクトニクスについて,どう考えればよいのでしょうか? そのための具体的なデータは当然ですが無いので,私は現在のところ『日本海形成当時(漸新世~中新世)の西南北海道』を思考モデルとしたいと考えています.あまり根拠のないご都合的なものですが...下部中新統福山層を尻高沢層基底部のアナロジーとして使い,以下のような想像が可能です.
① 中期デボン紀以降続いた上昇陸化・浸食期.=“気仙褶曲”
② 引張テクトニクスへの移行(要因不明).
③ 沈降の開始とともに尻高沢層基底河川成層が堆積し,初期玄武岩質火山活動が起きる(後期デボン紀?~最初期石炭紀).“赤紫色凝灰岩” は,その時期の陸成風化環境を示唆する.
④ バイモーダルな珪長質陸上火山活動が起きる(尻高沢層主部).
⑤ 陥没性堆積盆の発達により海進と堆積盆の分化が進行する(トルネー期~前期ヴィゼー期).火山活動はおもに玄武岩質(有住・大平層).これにより各亜帯が形成された.
このように考えてみると,単なる想像に過ぎないのですが,南部北上帯下部石炭系の生成様式が朧気に見えてくるような気がします.
“水車小屋裏の露頭” というのはもちろん私が勝手に付けた(or 第2講座内の俗称?)もので,陸前高田市小坪沢の入り口付近にあります.その位置は次の項の地質図上に示しました.林道わきに水車小屋があり,1970 年代の私の調査時にはまだ米搗き用の(?)突き臼が稼働していました.現在はもちろん小屋自体が無くなっています.この小屋の奥,沢の曲がり部分に露頭があります.
何の露頭かというと,湊(1941)によって『鬼丸層と下位の大平層の不整合関係』を示すとされた露頭です.湊(1942)は,この不整合によって示される構造運動を『清水褶曲(Shizu Folding)』と命名しました.
※ この小坪沢 “不整合露頭” で示されるとされた構造運動の名称が『小坪褶曲』でも『横田褶曲』でもなく,はるか北方に離れた住田町清水の地名が冠された理由は私には分かりません.湊(1942)の地点別柱状図にも,清水のものはありません.私の調査では,清水周辺には確かに鬼丸層相当の黒色石灰岩層の露出がありますが,その層厚は薄いもので累層単位を構成せず,川村(1985c)で加労沢層上部層中の挟在層として扱われています.
両層の不整合関係が記載されたのは,南部北上帯でこの露頭一ヶ所だけです.また,この露頭で見られる層位関係を不整合としているのは湊(1941)だけです.湊ほか(1953)にも武田(1960)にも,“不整合である” と引用的に一言書かれているだけで,具体的な記載事実によるフォローはありませんでした.
一方,それ以外の他の著者の論文・総説・著書の中でこの露頭での関係を “断層” とするものがいくつか見られるのですが,あるものは欄外脚注だったり,詳細に記載して否定したものはありません.川村(1985b)では,その点を徹底的に検証するという目的で,“水車小屋裏の露頭” を詳細に検討しました.いま考えてみると,そこまでやる必要が果たしてあったのか,確証はありません.
右は,“水車小屋裏の露頭” の見取り図とパノラマ合成写真です.パノラマ写真はもっと上流(大平層)側も撮影しているのですが,撮影の方法が悪く隙間が空いてしまい,パノラマ合成は不可能でした.
沢の曲がりの下流側に鬼丸層石灰岩が,上流側に貫入脈岩と大平層泥岩(不純石灰岩層を挟む)が露出し,鬼丸層と大平層が接触する部分はありません.
鬼丸層石灰岩と貫入脈岩との間には幅 1 m 以下の断層破砕帯が存在します.この部分が湊(1941)によって鬼丸層石灰岩下位に非平坦面をもって『大平層最上部の炭質頁岩と石灰質砂岩の互層』の不整合関係とされた部分です.
※ 湊(1941)におけるこの層序関係の記述には,かなり曖昧な点があります.本文中には『両者の関係は整合一連とみなすには躊躇される点がある』『凹凸面を境界とするが,石灰岩の下底にはしばしばこのような面が見られるので直ちに不整合面とするのは危険である』(意訳)などと慎重な言い回しになっているのですが,層序説明の項には『Clino-unconformity』と2度にわたって明確に書かれています.
湊ほか(1953)ではこのような曖昧な記述はなく『鬼丸統下の不整合が(中略)第1級のものであることについては(中略)ますます実証されてきており』とポジティブな記述となっています.
しかし,鬼丸層下底部の断層破砕部を詳細に観察すると(右図),湊(1941)の主張の意味がだんだんと分かってきます.
破砕部の上流側には幅 数 cm の黒色断層ガウジがあります.湊(1941)の見取り図(第11図)にはこのガウジ部が欠けています.
右の写真でもよく分かりますが,破砕部から断層ガウジを除いた部分は,②黒色の破砕された “片状泥岩” と,その中に伸長ブーダン状に包有される④緑灰色の岩石からなっています.湊(1941)は,前者を『炭質頁岩』,後者を『石灰質砂岩』とし,大平層のメンバーであるとしています.それらは鬼丸層石灰岩の下底面と斜交しているようにも図示されています.しかし川村(1985b)は,後者の岩石を顕微鏡的に観察し,④が堆積岩ではなく変質・破砕した貫入岩(閃緑玢岩)であるとしました.
そうなると,② “片状泥岩” が実際に堆積岩(泥岩)を源岩とする破砕岩であるとして,それは鬼丸層石灰岩の下位にあるのだから大平層のメンバーではないのか?という見方があるでしょう(湊,1941).この点については,論理的には Yes とも No とも言えません.鬼丸層石灰岩の下位層なのだから当然,大平層であるとも言えます.また上の露頭見取り図にもあるように,鬼丸層中にも薄い泥岩の挟みがありますので,鬼丸層中の挟在層とも言えます.どちらなのかは分かりません.
しかし仮に②が大平層メンバーとしても,③は貫入脈岩なので②/③の構造は層理ではなく,したがって湊(1941)が図示した凹凸・斜交構造が傾斜不整合によって作られたものとは言えなくなります.
結論として,“水車小屋裏の露頭” の示す意味をまとめると以下のようになります.
A:②が鬼丸層メンバーだった場合 → 鬼丸層と貫入脈岩との断層関係.
B:②が大平層メンバーだった場合 → 鬼丸層と大平層の関係は不明 = 整合・不整合・断層関係すべてあり得る.
C:②が源岩を特定できない断層破砕岩だった場合 → Aと同じ.
最後に蛇足ですが,私は湊(1941)による詳細な層序学的記載には同じ(?)地層屋として敬服するものがあります.勝てないな,とも感じます.そういうリスペクトを持って,この当時は重要と思われた露頭現象を詳細に検討し,川村(1985b)で丁重に否定させていただいた,と自分では思っています.
小坪の沢入口における鬼丸層と大平層の関係は不整合とは言えない,ということは分かりました.その不整合関係を示唆する場所はこの一ヶ所だけなのですが,それを否定しただけでは『だから鬼丸層と大平層の関係は整合』ということにはなりません.層序関係についての他の観察結果が必要です.
陸前高田市平貝(たいらがい)付近は,その層序関係を観察できる良好なルートです(川村ほか,1985).以下ではこれを “平貝ルート” と呼びます.周辺地域の地質図を右に示します.
川村寿郎・川村信人・加藤誠(1985)南部北上山地世田米~雪沢地域の下部石炭系大平層・鬼丸層.地質学雑誌,91, 851-866.
平貝ルートでは,大平層最上部から鬼丸層にかけての岩相がほぼ連続的に露出しています(左図).
ここでは,最下流側にサンゴ化石を含む黒色石灰岩(鬼丸層)があり,その下位に大平層上部の砂質石灰岩/泥岩/砂岩互層が露出しています.鬼丸層石灰岩の下位には泥岩がありますが直接の関係は分からず,上流側には貫入岩脈が挟在しているため,その泥岩が大平層のメンバーなのかどうかも確定できず,鬼丸層中の挟在層である可能性も否定できません.つまり,岩相層序的には鬼丸層と大平層の関係は不明です.
しかし,大平層の砂質石灰岩中には鬼丸層と共通性のある Kueichouphyllum, Yuanophyllum 属の大型四射サンゴ化石を産し,従来大平層を特徴づけるとされているサンゴ化石 Sugiyamaella と共存しています.
右の写真は,大平層上部に挟在する砂質石灰岩の岩相を示したものです.炭酸塩岩石学的に正確な記載は私には到底不可能ですが,特徴的な同心円状構造を持つウーイド(ooid)粒子を大量に含み,時に斜交ラミナを示します.その他に,玄武岩・火山性石英粒子も含まれています(右写真下).
湊(1941)・湊ほか(1953)などではこのような岩相は大平層の中には記載されておらず,地質図の掲載が無いので詳細は不明ですが,鬼丸層の中に一括されている可能性があります.世田米西方の犬頭山周辺にも同様な岩相があり,川村ほか(1985)によって大平層最上部層準に区分されています.
以上のことは,岩相区分単位としての鬼丸層と大平層が少なくともサンゴ化石層序的には分離できないことを示しており,両層が整合漸移関係(・部分的に同時異相)であることを強く示唆しています.
大平層上部には,弱変成の結果としてクロリトイドや紅柱石の斑状変晶を生じた泥質岩が随所に見られます.その分布は前項の地質図を参照してください.
クロリトイド(Chloritoid)は,鉄とアルミナの含水珪酸塩で,その一般的な化学式は (Fe2+,Mg,Mn)2Al4Si2O10(OH)4 です.Iwao (1978) によると,クロリトイドは鉄とアルミナに富んだ泥質岩が緑色片岩相程度の弱変成作用を受けた時に晶出するとされています.大平層の弱変成作用の要因は必ずしも明確になっているわけではありませんが,おそらくすぐ東側に分布する前期白亜紀気仙川花崗岩体の熱的影響によるものでしょう.
Iwao, S. (1978) Re-interpretation of the chloritoid-, staurolite- and emery-like rocks in Japan - chemical composition, occurrence and genesis. Jour. Geol. Soc. Japan, 84, 49-67.
右にその顕微鏡写真を示します.産状としては,単独の結晶でアワーグラス構造を持つもの(右写真上)と,束状の集合(双晶?)を示すもの(右写真中)とがあります.いずれも直交ポーラーで特徴的な異常干渉色を示し,すぐにそれと分かります.
なお,ここで “泥質岩” と表現しているのは,顕微鏡写真を見るとお分かりのように,砂粒子が見えるシルト岩~極細粒砂岩です.
これらの泥質岩の全岩化学組成を左表に示します.“TypeⅠ” はクロリトイド斑状変晶を含むもの,“TypeⅡ” はクロリトイドを欠き紅柱石斑状変晶のみのものです.“WMA” は,各種既存文献の組成値から平均した世界の通常の泥岩の組成です.
この組成から明瞭なのは,TypeⅠ泥岩は total Fe2O3 が通常の泥岩と比べて非常に多い(約3倍)ことです.アルミナ量も有意に多くなっています.TypeⅡ泥岩のアルミナ量は両者の中間的な組成となっていますが,total Fe2O3 は通常泥岩とほぼ同じかやや少なくなっています.
これをグラフで表わすと右図のようになります.上は,total Fe2O3 - SiO2/Al2O3 ダイアグラムです.『通常の泥岩』と『ラテライト質泥岩』は,“いろいろな文献”(論文ではないので省略します)から得た組成値の平均です.大平層上部の泥岩の組成プロットは,TypeⅠは横軸方向に TypeⅡは縦軸方向に少し分散していますが,それぞれ平均値を取ると TypeⅠはラテライト質堆積物から少しアルミナに乏しいところに,TypeⅡは通常泥岩から少しアルミナに富んだところにプロットされています.
下は,SiO2-Fe酸化物-Al2O3 三角ダイアグラムで,重量比ではなく分子数比になっています.TypeⅠはカオリン粘土とラテライトの中間部付近に,TypeⅡはカオリン粘土の通常泥岩側にプロットされています.
クロリトイドの晶出には,① 泥岩が鉄アルミナ質の全岩組成を持つ,② 緑色片岩相程度の弱変成作用を受けた,という二つの条件が必要です.横田地域の大平層上部にクロリトイドに富んだ岩石があることは事実ですが,『それ以外の層準には鉄アルミナ質泥岩はない』とは必ずしも言えません.他の層準で ① が Yes でも ② が No であるだけかもしれないからです.南部北上古生層の受けた変成作用については具体的には分かっておらず,他の層準の泥質岩の化学組成値もどこにもないので,どうなっているのか正確なことは分かりません.
ただし,有住層上部や尻高沢層の泥質岩にクロリトイドを含むものはどの分布地域からも見出されていないことを考慮すると『鉄アルミナ質泥岩は大平層上部の特徴である』と考えてよいでしょう.
※ 南部北上帯古生層中でクロリトイドを含む泥質岩のもう一つの層準として, 下部ペルム系坂本沢層基底部泥岩 があります.これは不整合面直上の陸成風化残留堆積物の影響によるものと考えられています.
大平層上部の鉄アルミナ質泥岩の存在から,当時の堆積(・テクトニクス)環境を想像してみると以下のようになります.
前期石炭紀・トルネー期から前期ヴィゼー期まで続いたバイモーダルな島弧火山活動が弱化し,分化した火山性堆積盆は徐々に安定していきました.後期ヴィゼー期になると,南部北上帯のほとんどの部分が “一様な” 炭酸塩堆積場に変化していきました.
後述するように当時の南部北上帯は赤道に近い場所に位置しており,火山活動や堆積盆分化の弱化した安定陸域上に,熱帯性気候下でラテライト質風化残留土壌が形成されました.その形成には,乾燥と湿潤が繰り返すサバンナ気候も一役買っていると言われています.右上写真に,ラテライト質土壌断面の現世例を示します.風化残留土壌の一部は河川浸食によって海域へ流入し,通常の泥質堆積物とある程度混合して鉄アルミナ質の泥が堆積しました.
※ 世田米-大股亜帯の下部石炭系火山岩類については,川村(1985a,b,c)に層序的記載がありますが岩石学的記載は十分ではありません.川村・川村(1989a)ではその化学組成を総括的に記述しましたがこれも十分なものではありません.
詳細な記載やデータは,正式な論文業績ではありませんが,川村(1997)に記録しました.しかしそれはネット公開されておらず,原本は既に絶版で入手不可能です.そこで,当時の出版データから最新のソフトで “復刻” してみました.内容は当時そのままですがフォントやレイアウト等の体裁は多少変わっています.これを参考までに PDF ファイル で公開しておきます.この項は,この “論文” を下敷きとしたものです.
南部北上帯世田米・大股亜帯の下部石炭系が各種の火山岩類を特徴とすることは,既に層序概説の項で述べました.地質図ライブラリの各地域別の 模式柱状図 にもそれがはっきりと示されています.
それでは,実際に下部石炭系の中で火山岩類の占める割合はどうなっているのでしょうか? 地質論文ではそういうデータが具体的に(・半定量的に)示された例はそう多くありません.
右に示したのは,湊(1941)に示されている陸前高田市小坪沢の下部石炭系の岩相層序を再解釈・再構成し柱状図として表現したものです.おそらく私の知る限り,南部北上帯下部石炭系に関するこの精度のデータはこれが唯一のものでしょう.なお,住田町下有住地域の下部石炭系を扱った武田(1960)には部分的な岩相層厚データが掲載されていますが,全体にわたるものにはなっていません.
火山活動の相対的な “活発度” を考える上では,『○○層では玄武岩質火山岩類が卓越し』などのように感覚的に多いとか少ないとか言ってもあまり説得性がなく,要するに 何% あるなのか?と思ってしまいます.湊(1941)のデータから集計してみたところ,鬼丸層を除く下部石炭系の全層厚 1486 m に対して玄武岩質火山砕屑岩類の積算層厚は 606 m (41 %) でした.これはかなりインパクトのある比率と思いますが,有住層より下位(=尻高沢層)のデータはなく,ルートはこれ一本だけで,もちろん珪長質凝灰岩については no data です.
いずれにせよ,全域にわたる定量的な層厚データなどそもそも無いのですが,少なくとも世田米・大股亜帯で火山岩類の量比を見積もる何かうまい方法は無いものかといろいろ考えてやってみました.
注)南部北上帯石炭系中の火山岩類の半定量的な層厚見積もりは湊ほか(1959)でも行われています.しかし層序区分の混乱や,元の層序データが明示されていないこと,さらには岩質の誤認(玢岩質=安山岩質)もあり,残念ながらあまり意味のあるものとはなっていません.
湊 正雄・武田裕幸・加藤 誠(1959)本邦古生層中の火山岩類について-第2報 石炭系.地質学雑誌,65, 165-170.
火山岩類量比見積もり手法は以下の通りです.なお,玄武岩質火山岩については,『成層火山砕屑岩』は含めていますが『泥岩/火山砕屑岩互層』は火山砕屑岩の割合が少ないと判断し,除外しています.
・元データとして,地質図ライブラリにも示した ルート別柱状図 (単なるビットマップ画像)を使用する.
・柱状図をドローソフトに取り込み,『各地層区分』『玄武岩質火砕岩』『玄武岩溶岩』『珪長質凝灰岩』の部分を等幅の矩形としてなぞり書きし,それぞれ異なる色で塗りつぶす(右図参照).
・塗り潰した矩形部分だけをビットマップ画像(PNG 形式)として保存する.
・画像を Adobe Photoshop で開き,測定したい部分を色域選択で選択する
・Photoshop の “Measurement Log” 機能を使うと,選択領域のピクセル数を簡単に知ることができる.
・矩形の幅がすべて等しい場合,ピクセル数の比=矩形高さの比となる.この時,柱状図のスケールも等幅にして同様に取り込んでおけば,矩形の高さを比だけではなく厚さ(m)に変換できる.
・この測定を必要な地層部分とカテゴリーについてそれぞれ行い,Excel に転記入力した値を使って,累積値や相対比などを計算する.
この方法で測定・計算した南部北上帯下部石炭系中の玄武岩質火山岩類と珪長質凝灰岩の層厚比を右図に示します.前者が全体の約 23 %,後者が 7 % あることが分かります.
“その他” としたものには,火山岩類以外の堆積岩(泥岩・砂岩・石灰岩など)のほかに『露出が欠けている部分』も含まれています.したがって,この火山岩類の層厚比は “最小値” です.ただし,この手法は火山岩類の層厚見積もりが実際よりも過大になる傾向がありますので,相殺されてちょうどよいのかもしれません.いずれにせよ『単なる参考値』に過ぎませんが,十分に意味のある値になっていると思われます.
左に示したのは,火山岩類の層厚比を各層準ごとに集計したものです.玄武岩質火山岩類は有住層全体の約 37 %,加労沢層中部・下部層では実に 58 % を占めていることが分かります.珪長質凝灰岩は尻高沢層の 19 %を占めています.これは,ある意味予想していなかったほど高い値です.
“溶岩比” というのは,それぞれの層準の玄武岩質火山岩類に占める溶岩の割合(%)です.大平層が 9 %,加労沢層中部層・下部層が 33 % となっており,後者では玄武岩質火山岩類の 1/3 を溶岩が占めていることが分かります.
なお加労沢層上部層は,層準的には大平層上部~鬼丸層に対応するものですが,珪長質凝灰岩が 6 % 含まれており,大平層の 0 % と大きく異なった傾向を示しています.この理由は不明ですが,中部・下部層での玄武岩質火山岩類の多さ・溶岩比の高さと共に,世田米亜帯とは異なる大股亜帯の特徴を示しているものと考えられます.
結論として,このような世田米・大股亜帯の火山岩類の卓越は南部北上帯下部石炭系が島弧火山岩類そのものであることを示しています.
上述したように,玄武岩質火山岩類は南部北上帯下部石炭系の 1/4 近くを占める “卓越岩相” で,溶岩・角礫火砕岩・ラピリ火砕岩・粗粒火砕岩互層からなっています.しかし,それを火山岩石学的に扱うには,大きな障害が存在します.変成(・変形・変質)していることです.玄武岩は tectonic signature を有する有用な岩石の一つですが,残念ながらこの問題のため,玄武岩を用いた南部北上帯石炭紀テクトニクスに関する詳細な検討・議論はできません.以下では,このような制約をとりあえず傍に置いて記述します.
なお,ここで『溶岩(lava)』としたものは溶岩流としての産状が確認されたものというわけではありません.“露頭規模で均質な緑色玄武岩” を溶岩と表現しているだけものですので,その中には粗粒火砕岩中のサイズの大きな玄武岩ブロックや,供給岩脈(feeder dyke)などの貫入岩体を含んでいる可能性があります.鏡下では石基-斑晶からなる斑状組織を示しますが,変質・変形が著しいものが一般的です.
また,南部北上帯古生層中に貫入した白亜紀脈岩類の中には特徴的な斜長石玢岩だけではなく(粗粒)玄武岩もありますので,あまり考えたくないことですが,最悪の場合そのようなものを誤認している可能性がゼロとは言えません.ただし,後述する全岩化学組成では玄武岩質粗粒火砕岩と “溶岩” との間には有意な組成差はなく共通の組成特徴を示していますので,新期貫入岩体の誤認という可能性は非常に低いものと考えています.
※ 火山砕屑岩の名称については(特に玄武岩質の場合)悩ましい点があります.私は個人的には,Fisher (1966) や河内ほか(1976)のような『成因+粒度』という分類が性に合っているのですが,そこには多少の問題があります.成因が不明あるいは複数にわたると考えられる場合です.南部北上帯下部石炭系の場合がまさにそれです.そのような場合は non-genetic な分類を行うのが定石なので...ここでは,すべてを非成因分類名として『volcaniclastic(火山砕屑性)○○』(○○は粒度名)と表記することとします.また,“火砕” を pyroclastic ではなく,“火山砕屑(性)” の省略形として使用します.
Fisher, R.V. (1966) Rocks composed of volcanic fragments and their classification. Earth Sci. Reviews, 1, 287-298.
河内洋佑・Landis, C.A.・渡辺暉夫(1976)ハイアロクラスタイト.地質学雑誌,82, 355-366.
1.大平層・有住層のラピリ火砕岩
大平・有住層では,おそらく湊(1941)によって小坪沢ではじめて指摘されたように,それぞれの層の下部層準に厚い玄武岩質ラピリ火砕岩(basaltic volcaniclastic lapillistone)が存在するのが特徴です.
上写真はその露頭表面を示したものです.内部構造は塊状無構造・無層理です.上の写真では,どちらも左上-右下に crude bedding らしきものがかすかに見えるような気がしますが,これが現実に層理なのかは不明です.少なくとも当時の調査時には認識されていません.
ラピリの直径は 1 - 2 cm が最大で,全体の淘汰度は低いのですが “over-sized” な礫はほとんど見られず上限が比較的揃っているので,粒度分布としてはちょっと特徴的です.ラピリの外形はやや円磨しており,亜角~亜円礫です.
ラピリ火砕岩の塊状・無層理な内部構造は,切断研磨標本でさらによく分かります(左写真).
大平層のラピリ火砕岩は,有住層のものに比べてラピリが濃緑色を示す傾向が野外露頭・標本でよく見られるのですが,意味のある差異かどうかは不明です.
ラピリの形状は露頭観察でも分かるように亜角~亜円礫です.淘汰度は比較的悪くありません.
内部にバンド状の色の変化を示すラピリもあります(有住層サンプルの右端など).これが急冷縁を示すものであれば,ハイアロクラスティック起源の可能性がありますが,残念ながら未確認です.ラピリ火砕岩中には溶岩・含角礫火砕岩も挟在しますが,枕状溶岩は見出されていません.
鏡下では,玄武岩ラピリはラス状斜長石によるインターサータル組織を示し,程度の差こそあれ発泡構造が見られます(下写真).ラス状斜長石の並びで示される流状組織も普通に見られます.全体に変質・再結晶しており,有色鉱物(カンラン石・輝石など)の残存はありませんが,その外形から単斜輝石と判断されるものが認められます.大平層と有住層で特に岩相的な差異は認められません.
加労沢層の中部層・下部層中に挟在する玄武岩質火山岩類は,大平・有住層のものとはかなり異なる岩相特徴を持っています.
右の露頭写真は,角礫火砕岩です.不淘汰な玄武岩角礫からなり,角礫の外形は著しく角ばっています.急冷破砕によるものと思われる湾入状破断面も認められます.おそらくハイアロクラスティックなものと思われますが,変質のためか急冷縁や枕破片等は認められません.
加労沢層中には塊状玄武岩溶岩が他の地層中には見られないほど卓越し,既に述べたように玄武岩質火山岩類の約 1/3 を占めています.まれに気泡の不明瞭な同心円状配列などで枕状溶岩と推定される部分もありますが,変質・変形により不明瞭で,確信はありません.
中部層の成層火砕岩互層を右に示します.新鮮な露頭面で鮮やかな緑色を示し,顕著な葉理が特徴的です.黒色の粒子は単斜輝石破片です.なお,大平・有住層に見られる塊状ラピリ火砕岩は加労沢層には認められません.
切断研磨標本で見ると,この成層火砕岩の特徴がよく分かります(左写真).全体に顕著な平行葉理を示しますが,一部には低角斜交葉理も見られます.強い掃流環境下で堆積したものと考えられます.黒色の単斜輝石粒子を大量に含み,その量比と粒度の変化が葉理を強調しています.
火砕岩を鏡下で見ると,やや変質してはいますが,単斜輝石破片を大量に含んでいるのが確認できます.淘汰度・円磨度は非常に低いものです.私の確認できる限り,南部北上帯下部石炭系火山岩類で単斜輝石が残存しているのは,この加労沢層のものだけです.
残念ながら,この単斜輝石についての火山岩石学的検討(例えば EPMA分析)は行われていません.
湊(1941)には,大平層・有住層の玄武岩質ラピリ火砕岩(Ⅱ・Ⅳ “層群”)が,それぞれ 135 m・190 m の厚さにわたって塊状無層理で連続露出すると記述されています.しかし,既に示したようなラピリ粒度でそれほど淘汰の悪くない火砕岩がそれだけの厚さを持つ単一の堆積物というのは非常に考え難い点があります.癒着しているという可能性もありますが,『露出の問題』の可能性が考えられます.南部北上帯古生層の露出状況は一般にあまり良くなく,例えば沢筋での連続露出というのはあまりありません.ラピリ火砕岩は風化抵抗岩相ですので,その間に細粒・成層火砕岩が挟在していても露出として認識できない可能性があります.
この項ではこのような観点から,大平・有住層のラピリ火砕岩層の堆積状況について観察例を記述します.
1.有住層ラピリ火砕岩下底部
左に,住田町尻高沢中流部で観察された有住層最下部ラピリ火砕岩層の産状を示します.観察箇所は右の地質図を参照してください.
観察できたのは下底から 20 m ほどですが,①一見厚いラピリ火砕岩層と見える中に薄い級化葉理部を挟んでおり,フロー・ユニット(厚さ 10 m 程度)の境界がある,②級化葉理部と上位ユニットとの境界は不連続的,③有住層最下部のユニット下底部は上方粗粒化する成層火砕岩から移化している,④ユニットの主部は塊状無層理である,といった特徴があります.これらのことは,このフロー・ユニットが高密度重力流堆積物であり,有住層の厚層ラピリ火砕岩層がその複合体であることを示唆しています.
陸前高田市小坪沢では,有住層最下部ラピリ火砕岩層の下底面の構造を観察することができます.その観察位置は右の地質図に示しました.小坪沢下流では上位から鬼丸層-大平層-有住層が背斜の東翼をなして分布しますが,露頭箇所はその軸部付近に相当しています.
この露頭では,有住層玄武岩質ラピリ火砕岩層の下位に泥岩/石灰質砂岩互層が接しています(左図).ラピリ火砕岩層の下底は凹凸(深さ 数十cm 程度)を持った面で下位互層の層理を切っています.
この下底部の一部をサンプル採取し切断研磨して観察すると,右図のようになります.下底部は著しい未固結時変形により乱雑で,ラピリ部の分離・破断,下位の泥の突入(protrusion)などが認められます.ラピリが単独で泥質部に包有され含礫泥(pebbly mud)状になっている部分もあります.
※ ラピリの色調が玄武岩らしくなく白っぽく見えるのは写真のせいではなく,なんらかの変質によるものと考えられますが,詳細は不明です.
川村(1997)では,この火砕岩下底部が下位層と “浸食関係” にあるとしました.しかし,高密度重力流堆積物が下位層を大きく浸食するとは考えにくく,切断標本に見られる未固結時変形構造も浸食関係とはマッチしません.
おそらくこれは,ラピリ火砕岩の迅速な堆積によって生じた荷重(loading)と密度差による上位堆積物の下位層への “沈み込み(sinking)・没入” で形成された未固結時変形構造と考えられます.
右写真に示したのは新第三紀層における荷重変形の比較例です.この写真に見られるように,下位層の成層構造も荷重変形によって当然変形しますが,上に示した小坪沢でのスケッチではそうなっていません.未確認ですがおそらく,未固結時変形に経験の浅かった当時の私の眼にはそう見えたということかもしれません.
右写真は,大平層の塊状ラピリ火砕岩に伴う玄武岩質成層火砕岩です.粗粒砂~シルトサイズですが,オーバーサイズ礫を含む薄い含礫砂層も見えています.全体に平行葉理を示します.写真の右上隅に見えているのは塊状無層理ラピリ火砕岩の基底部だと思いますが,当時の記載には無いようです.この成層火砕岩は,おそらく二次的にリワークされた火山性堆積物でしょう.
こういった成層火砕岩は大平層の随所で見られるわけですが,塊状ラピリ火砕岩との関係や堆積状況は,小坪沢本流部では露出状況の点でよく分からず,湊(1941)でも記述されていません.その点を知るために,小坪沢下流部北支流の北東斜面の露頭状況の良いところで “尺取り” を行い柱状図を作成してみました(左図).この斜面付近では大平層は西へ 30 - 45 度程度傾斜しているため,南西部に向いた当該斜面で “受け盤” となる地層の累重関係をよく観察できました.
ここで観察された玄武岩質粗粒火砕岩ユニットは,五つのサブユニットに区分できます.それぞれのサブユニットは厚さが 15 - 30 m 程度で,下部が塊状でほぼ無層理のラピリ火砕岩,上部が成層火砕岩~火山砕屑性砂岩からなり,上方に細粒化・成層化・薄層化しています.ユニットの全層厚は 103 m です.左図では省略しましたが,すぐ上位に石灰質泥岩・砂岩と石灰岩の互層が露出しており,火山岩ユニットの全体を観察できたと考えられます.
これらの地層の特徴から,この火砕岩サブユニットは重力流堆積物ユニットで,下部の塊状無層理ラピリ火砕岩はその高密度部・岩屑流(debris flow)堆積物と考えられます.それぞれの上部には上で示したような二次堆積物を挟んでいるものと考えられますが,成層部のどこまでが重力流堆積物なのか・どこからが掃流堆積物なのかは未確認です.
なお,上述したように有住層・大平層のラピリ火砕岩中には溶岩の挟在が数多く認められますが,これが溶岩流なのか,あるいは上記岩屑流堆積物中のブロックに過ぎないのかは,厳密には不明です.
この項では,南部北上帯下部石炭系中の玄武岩質火山岩類の全岩化学組成について述べたいと思います.しかしなにしろその分析を行ったのは 1970 年代後半の話です.いくらでも突っ込みどころがあるわけですが,大きくは以下の2点でしょう.
① 溶岩そのものを十分に分析できたわけではなく,その多くはラピリ火砕岩の組成である.いくら粗粒であっても,堆積過程でマグマ組成とかけ離れたものになる可能性は十分にある.
② 変質・変成作用の影響を評価できない.既に述べたようにこの火山岩類には一次的な火成鉱物は一部を除いて残っておらず,すべて再結晶している.その結果として当然,組成移動を被っているはず.しかしそのベクトルは不明としか言えない.
これに加えて,当時の(and/or 私の)分析技術の問題があるわけですが,そこは武士の情けで(?)触れないことにします.
実は当時の私も,上の2点の “flaw” を十分認識していました.ある意味,他に手がないのでダメもとでやってみたわけですが,その結果を方眼紙に(!)プロットしていて,自分でも驚きました.そこには明らかに systematics が見えたからです.それについては下に述べていきますが,もしそれが見えなかったら,この分析結果はすべてボツにせざるを得なかったでしょう.
左のテーブルは,玄武岩質火山岩類の分析値の各層ごとの平均値です.それぞれ分析個数は4で,溶岩:火砕岩 = 5:7 です.
SiO2 から始まる主要元素全体の分析はたったこれだけ(12個)です.分析値や分析方法の詳細は川村(1997)に記述しています.
SiO2 の平均は 51 wt% 前後ですが,water-free basis では 52 - 53 % となり,数字上の定義で言うと玄武岩質安山岩(basaltic andesite)になってしまいます.しかし,鏡下記載ではすべてラス斜長石を含む玄武岩組織を示していますので,このアーティクルでは『玄武岩』として扱います.変質・変成によって SiO2 は増加すると一般に言われていますので,それが要因と考えています.
ともあれ,お定まりの “都城の図(Miyashiro, 1974)” に分析値を落としてみると上のようになります.SiO2 量(water-free basis)は変質の影響か,かなりばらついており,55 wt% に達するものもいくつかあります.しかし,FeO*/MgO 比で見ると,不明瞭ですがなんとなく二つのクラスターを形成しているように見えます.しかもそのクラスターの内容は,『大平層・有住層』と『加労沢層』とにきれいに分離しています(有住層溶岩は例外).前者はソレアイト領域に,後者は未分化な領域に位置しています.しかし,この “組成クラスター” はいまいちはっきりせず,単に分析数が少ないのでそう見えるだけのようでもあります.
Miyashiro, A. (1974) Volcanic rock series in island arcs and active continental margins. Amer. Jour. Sci., 274, 321-355.
そこでさらなる分析数が必要になるわけですが,SiO2 を含めた主要元素をすべて分析するのは当時ちょっと “手法的”(?)に無理がありました.そこで当時の私は窮余の策というのか『7元素だけ分析すればよい』と考えました.7元素というのは;Ti, Fe, Mn, Mg, Na, K, P です.本当にそれだけでよいのでしょうか...? ともあれ,やってみました.分析数は,大平層:19 (5),有住層:22 (4),加労沢層:18 (12) の計 59 個でした(括弧内は溶岩).
まず,分析値を FeO* - FeO*/MgO ダイアグラムにプロットしてみました(右図).これが当時私が方眼紙上に見た “systematics” です.上の SiO2 - FeO*/MgO ダイアグラムでおぼろ気に見えていた二つのクラスターは,同じ構成でよりはっきりとしたものになっています.これを以下,クラスターA・クラスターBと呼びます.両者の間には明確な広いギャップがあります.
クラスターAは,クラスターBよりも FeO* 量が多く FeO*/MgO 比も高くなっています.Miyashiro (1973) の判別境界を使うと,前者がソレアイト系列,後者がカルクアルカリ系列との境界付近の未分化な領域に位置しています.
Miyashiro, A. (1973) The Troodos ophiolitic complex was probably formed in an island arc. Earth Planet. Sci. Lett., 19, 218-224.
組成値をクラスターごとに平均してみると左の表のようになります.特に FeO*, MgO, TiO2, FeO*/MgO において両者の間には明確かつ大きな差があることが分かります(太字部).
ここで当然問題になるのは,この組成クラスターが『元のマグマ組成を反映している』ものなのかどうかということでしょう.前にも書いた通り,なにしろラピリ火砕岩を含んでいますし,変質・変成も著しいのですから.例えば以下のような可能性も考えられます.
① 単なる偶然でこうなっただけ.“マックスウェルの悪魔” の仕業.
② 堆積性選別や変質・変成作用による組成変化にある種のベクトルがあり(eg. 石英砂岩・珪化岩などを想起),その収束の結果あるいは途中経過を見ているだけ.マグマ組成の系統的な差異を表しているわけではない.
もちろん①はジョークというものですが,②の可能性はどうでしょうか?
右の図は,TiO2 - FeO*/MgO ダイアグラム上の Miyashiro (1973, 1974, 1975) や周藤ほか(1985)などに示されている各種玄武岩の分化トレンド・組成範囲を示したものです.この図では,前期石炭紀玄武質火山岩の組成は,それらの組成範囲と十分 consistent です.通常の火山岩組成領域の中に入っており,上記②で想定されるような選別や変質による大きな影響を見ることはできません.そうであれば “オッカムの剃刀” に従って,この組成クラスターはマグマ組成を反映したものと仮定することが十分に可能です.
以下では,このような仮定・前提の下に,玄武岩質火山岩の化学組成について他の可能性は無視して(!)記述することとします.
Miyashiro, A. (1975) Classification, characteristics, and origin of ophiolites. Jour. Geol., 83, 249-281.
周藤賢治・伊崎利夫・八島隆一(1985) 栃木県茂木上北部地域に産する第三紀高TiO2ソレアイト.岩鉱,80, 246-262.
この TiO2 - FeO*/MgO 図で判断する限り,クラスターAはやや分化したソレアイト領域に,クラスターBは未分化領域に位置しています.
クラスターAは,島弧ソレアイトのTiO2 の一般的な上限値である 1.5 wt% を越えて海洋性ソレアイト領域にありますが,FeO*/MgO 比が 2 以上の部分で緩やかに右下がりになっているようにも見えます.このような high-TiO2 玄武岩が島弧に出現する例は,例えば周藤ほか(1985)で報告されていますが,その意義はあまりはっきりしてはいないようです.
クラスターBの MgO 量は平均で 9 wt% を越えており,boninite の一般的な判断基準の一つである MgO ≧ 8 wt% を満たしています.しかし,TiO2 wt% < 0.5 や Mg# > 0.55 は満たしていませんので残念ながらクラスターBが boninite とは言えないようです.
次に,マイナーな元素 Ti, Mn, P を使った当時の判別図(Rhodes, 1973; Mullen, 1983)にプロットしてみました(下図).
Rhodes, J.M. (1973) Major and trace element chemistry of basalts from LEG 9 of the Deep Sea Drilling Project. Trans. Amer. Geophys. Union, 54, 1014-1015.
Mullen, E.D. (1983) MnO/TiO₂/P₂O₅: a minor element discriminant for basaltic rocks of oceanic environments and its implications for petrogenesis. Earth Planet. Sci. Lett., 62, 53-62.
TiO2 - P2O5 図では,クラスターAは海嶺玄武岩から海洋島ソレアイトの領域に,クラスターBはほぼ島弧玄武岩の領域に収まっています.
TiO2 - 10xP2O5 - 10xMnO 図では,クラスターは近接し一部オーバーラップしていますが,クラスターAは島弧ソレアイトから海嶺玄武岩の領域に,クラスターBはカルクアルカリ玄武岩から島弧ソレアイトの領域にプロットされています.
※ 有住層の火砕岩がクラスターAに,溶岩がクラスターBに “泣き別れ” して所属している理由は不明です.川村(1997)では,有住層火砕岩中に包有された(=同源ではない)玄武岩ブロックやシート状貫入岩体である可能性を示唆していますが,いずれにせよ確かなことは分かりません.
一つ気になることは,横田・下有住地域では有住層火砕岩中に溶岩は挟在せず,分析サンプルは柏里地域の有住層から採取されたもののみであるということです.柏里地域は横田・下有住地域の西側,加労沢層の分布する大股亜帯に近い部分に位置していますので,何か関係があるのかもしれないとは思いますが,それ以上は考える手掛かりがなく no idea です.
これらのことから,前期石炭紀玄武岩質火山岩を岩石化学的に要約してみると以下のようになります.
クラスターA:分化した島弧ソレアイト.Fe, Ti に enrich しており海嶺玄武岩(MORB)に近い組成を持つ.
クラスターB:未分化な島弧玄武岩で,カルクアルカリ玄武岩の可能性もある.
クラスターAのような MORB っぽいソレアイトが出現するのは,南部北上帯の前期石炭紀火山活動が安山岩を欠いた bimodal なもので引張テクトニクスを示唆することと関係しているようにも思われます.しかしそれ以上の火山岩石学的考察は,データ不足もあり私には不可能です.
既に述べたように,下部石炭系中の珪長質凝灰岩は尻高沢層の 20 % 近くを占める卓越岩相ですが,1980 年代まで正確に記載されたことはほとんどありません.珪質シャールスタイン(湊ほか,1953),あるいは玢岩質凝灰岩(武田,1960)といった少し不思議・曖昧な表現が使われていました.
川村(1985a,b,c)・川村(1997)では,これを『酸性凝灰岩(acid tuff)』と表現し,その層序的分布と岩相を記載しました.“酸性” は “塩基性(basic)” と同様に現在では岩石名に使用することはできず,“珪長質(felsic)” という用語を使わなければいけません.以下ではこれらを基にして,前期石炭紀珪長質凝灰岩について記述していきたいと思います.
なお,これらの珪長質凝灰岩の供給元となった(おそらく陸上の)火山体,つまり陸成溶岩火砕岩類,それに供給岩脈や準同時性深成岩体などは,南部北上帯の内部にはまったく知られていません.デタッチした南部北上帯の “親地塊” 内に存在するものと推察されますが,詳細は不明です.
右の写真は,赤褐色がかった尻高沢層珪長質凝灰岩の印象的な露頭です.
白色の部分は弱変成作用による反応スポットが風化によって強調されたものです.その中心にある暗色部は本質レンズ(essential lens)=軽石片ですが,緑泥石などの粘土鉱物で交代されています.不規則アメーバ状の形状を持つことから,変成作用による短縮変形ではなく堆積時に “潰れた” ものと判断され,ユータキシティック(eutaxitic)構造を示しているということになります.
サンプルを採取し切断研磨してみると,この構造は一層明らかになります(上写真左).露頭写真もそうですが,これが『溶結凝灰岩』であっても何の不思議もないと思えるほどです.もちろんこの珪長質凝灰岩の上下層準はすべて海成層で,陸成層と思われる部分は存在しません.この凝灰岩の堆積状況については,次項で少し詳しく紹介します.
ただし,尻高沢層の珪長質凝灰岩がすべてこのようなユータキシティック構造を持つというわけではありません.上写真の右は,塊状無構造の珪長質粗粒凝灰岩です.特にデータはありませんが,一般的にはこのような岩相が卓越しているという印象です.
なお,少なくとも ルート別柱状図 で “珪長質凝灰岩” と塗色した部分は,そのほとんどが無層理塊状・無構造の凝灰岩で,成層したり葉理に富んだ岩相は認められません.
※ 地質図 や 断面図 では珪長質凝灰岩の部分が 100 - 200 m に達するように描かれている部分があります.これはルート別柱状図を見るとお分かりのように,露出の無い部分を珪長質凝灰岩層としてまとめ一体的に描いたものです.無露出は挟在する泥岩などによる可能性が高いので,珪長質凝灰岩層が実際にこのような連続的な厚さを持っているかは疑問です.
鏡下で観察すると,石英結晶粒子を含む,ある意味普通の珪長質凝灰岩です.緑泥石などの粘土鉱物で置換され扁平化した本質レンズが認められます(右写真矢印).
石英粒子は自形~半自形破片状で,著しい融食形を示すものもあります(下写真左矢印).再結晶の弱い部分では,アメーバ状・ウィッシュボーン状・三日月状の発泡した火山ガラス破片(volcanic glass shard)による vitroclastic 組織が確認できます(下写真右).
珪長質凝灰岩の火山ガラス片-岩石破片-結晶破片の3成分モード組成を右図に示します.
尻高沢層凝灰岩は比較的粗粒な岩相に対応した広い組成範囲を示しますが,分類としてはすべてガラス質凝灰岩(vitric tuff)に相当します.加労沢層の凝灰岩はそれよりも火山ガラス端成分に近い特徴があります.これは,尻高沢層のものに比較して一般に細粒で火山豆石を含む(後述)ことと調和的です.
なお,下に述べる水中火砕流のサブユニットごとの組成を 1 - 2 - 3 で表わしています.
Pettijohn, F.J., Potter, P.E. and Siever, R. (1972) Sand and Sandstone. 618 pp., Springer-Verlag, New York.
『珪長質凝灰岩』という岩石名を使った場合,凝灰岩=細粒火山灰=降下火山灰堆積物,という図式(・イメージ)で捉えられる場合があります.これは例えば北海道の白亜紀前弧海盆堆積体蝦夷層群中の凝灰岩でも同様で,しばしば根拠なく『西方の大陸地域陸上火山から飛散降下した火山灰堆積物』と解釈されることがあります.つまり,珪長質凝灰岩についてもその堆積状況を検討しないと,往々にして誤った解釈が行われる場合があるということです.
南部北上帯下部石炭系でもその教訓は同じです.尻高沢層中に挟在する珪長質凝灰岩は,そのほとんどが火山性粗粒重力流堆積物=水中火砕流堆積物で,海底に降下した火山灰堆積物と明確に判断できる部分はありません.
ただし加労沢層では,後述するように火山豆石を含む凝灰岩が特徴的で,少なくともその部分は降下火山灰堆積物と判断されます.尻高沢層のような厚い塊状凝灰岩層が分布する部分はなく,水中火砕流堆積物が存在するのかは未確認です.
住田町柏里北方の沢の東側山腹斜面には,尻高沢層中に水中火砕流堆積物が観察されます.その位置を左の地質図上に示します.
この水中火砕流ユニットは厚さ約 4.5 m で,上方に細粒化する三つのサブユニットに区分されます(下図).
サブユニット1は無構造礫質凝灰岩で,下底から 数 cm の部分は礫を含まず逆級化を示しています.その上部は正常級化し塊状粗粒凝灰岩からなるサブユニット2に移化しています.サブユニット1・2ともに明確な本質レンズは認められません.礫は大部分が珪長質火山岩・凝灰岩からなる本質~類質のものです.
サブユニット3は細粒ガラス質凝灰岩で弱いラミナを示し,上位の砂岩泥岩凝灰岩互層とはシャープな面で境されています.
ある意味当然ですが,これらのサブユニットのモード組成(前項参照)は,火山ガラス比(V)が上位へ 0.54 → 0.81 → 1.00 と “組成級化” しています.
このような,ユニット全体として上方細粒化する堆積物は,火山活動に直接由来する重力流堆積物であり,“水中火砕流堆積物”(subaqueous pyroclastic flow deposits: Fisk and Matsuda, 1964)に該当すると考えられます.
この水中火砕流堆積物の下位の砂岩泥岩互層には腕足類・ウミユリなどの海生化石が普通に含まれていますので,全体が海成層です.
Fiske,R.S. and Matsuda,T. (1964) Submarine equivalents of ash flows in the Tokiwa Formation, Japan. Amer. Jour. Sci., 262, 46-106.
尻高沢層の他の部分で少なくとも 10 m 以上の厚さを持ち時にユータキシティック構造を示す珪長質粗粒凝灰岩は,サブユニット1に相当する部分を見ているものと推測されますが,露出状況により残念ながら確認できていません.
ここで記載した水中火砕流堆積物の下底部には,迅速な堆積による上載荷重の急激な増加によると思われる荷重変形-液状化構造が観察されます(右写真・スケッチ).
下底面は凹凸に富み,一部には EW 方向に伸びる溝状ソールマークが見られます.上位の火砕流堆積物下底部にはフレーム状泥質部の侵入と巻き込みによる “ボール状構造” が認められます.下位の砂岩泥岩互層のトップから最大 1 m の部分は互層構造が見られず,無構造砂岩中に “ひも状” に破断伸長し一部 contorted な薄い破断泥質層を含みます(下写真).その “褶曲軸” は下底面に見られるソールマークとほぼ平行で,褶曲形態は北へ倒れた非対称なものになっています.
このような観察結果から,この火砕流堆積物のサブユニット1の下底は下位層に向かって荷重変形し,その結果 “ボール状構造” が形成されたと考えられます.
荷重変形に伴って下位層の成層構造も変形するのは当然なのですが,この露頭では下位層の成層構造が完全に破断変形して無構造砂岩の中に浮遊しています.これは下位層が液状化し流動したことを示唆しています.褶曲した泥質薄層の形態から,南→北の流動方向が想定されますが,明確とは言えません.
なお,荷重変形と液状化の前後関係(・因果関係)については,確実なことは分からないのですが,火砕流堆積物の迅速な堆積によって上載荷重が増加し下位層の過圧密を引き起こしたことが液状化・流動変形の要因ではないかと想像しています.
加労沢層上部層最下部には,火山豆石(accretionary lapilli)を特徴的に含む珪長質凝灰岩が挟まれています.左図は,それが典型的に分布する住田町下大股東方,スイ沢周辺の地質図です.赤い二重丸のシンボルが含火山豆石凝灰岩の観察位置です.
下に,資料ライブラリにある大股亜帯加労沢層のルート別柱状図の一部を示します.加労沢から生出地域まで,大股亜帯のほとんど全域にわたって上部層下部の凝灰岩中に火山豆石が含まれるることが分かります.
世田米亜帯尻高沢層や有住層にも珪長質凝灰岩が挟在していますが,その中には火山豆石を含むものはまったくありません.また加労沢層の他の層準にも無く,加労沢層上部層凝灰岩の大きな特徴となっています.
左写真に,含火山豆石凝灰岩の露頭産状を示します.火山豆石の直径は最大 1 - 2 cm 程度で,同心円構造を持ち,最外殻部に薄い不連続な明色リムがあります.外殻リムが破片状に分離したものも認められます.
豆石の形態はやや扁平ですが,圧密で説明できる程度で,特に構造変形のようなものは被っていません.扁平な豆石は現世の豆石にも認められていますので,生成当初からの形態なのかもしれません.
全体に豆石の弱い配列(写真で左上-右下)は認められますが,凝灰岩中には層理やラミナなどは特に認められず,無構造です.
切断研磨標本(右写真)では,暗色のガラス質破片(?)の配列が豆石の配列に調和的な弱い面構造を作っているように見えます.明瞭なラミナ等はありません.
鏡下では,火山豆石の内部構造がよく分かります(上写真).上写真左では薄い最外殻リムの不連続さが分かります.豆石の内部ほど粗粒になっていますが,コアの粗粒部とは粒度が不連続のように見えます.上写真右では外殻コアが破片になって基質中に散在しています(黒矢印).右上に見える豆石の外殻リムは一部クサビ状に途切れており,豆石が潰され外殻リムが破れかけているものと思われます.コア部は漸移的に内部に向かって粗粒化しているように見えますが,豆石の切断位置による見かけのものかもしれません.
火山豆石の成因としては,①噴煙柱を通過する雨滴への火山灰の吸着凝集,②噴煙柱内の水分による火山灰の凝集と球状成長,③降下火山灰表面への雨滴落下による吸着と rollling-downによる付着成長,などが一般に言われています.③の場合は火山豆石の生成自体は陸上の一次堆積面で起き,海中へ二次的に移動堆積したということになります.①②では豆石が直接海域に降下し海底に堆積するケースと,いったん陸上に降下した豆石が二次運搬され海底に移動したというケースが考えられます.なお加藤(1986)は,④噴煙柱内で発生し上昇下降により成長した文字通りの “ひょう(hailstone)” が火山灰を凝集固着させたという興味深い可能性を提示しています.
加労沢層の火山豆石がどの生成メカニズムによるものかは不明なわけですが,基質凝灰岩がラミナなど水流運搬を示唆する堆積構造を持たないので,③の可能性は低いのではないかと考えられます.いずれにせよ,噴火場所が陸上,あるいは海底であっても少なくとも噴煙柱が空中に達したことを示しているのでしょう.
加藤祐三(1986)ひょう起源の火山豆石.地質学雑誌,92, 429-437.
火山豆石が加労沢層上部層の特定の層準に限定されている理由は明確ではありません.上のような生成メカニズムを満たす特定の噴火プロセスが大股亜帯でこの層準の堆積時期にだけ生じたということなのでしょうか? No idea です.
尻高沢層・加労沢層の珪長質凝灰岩についてそれぞれ全岩化学分析を行いましたが,これから言えることは正直言ってほとんどありません.
左表は,尻高沢層・加労沢層の珪長質凝灰岩の平均組成です.分析数はそれぞれ3です.SiO2 量は 75 wt% 前後で,数字の上では流紋岩(rhyolite)に相当しますが,なにしろガラス質凝灰岩ですのでオリジナルな組成の判断は困難です.
尻高沢層は加労沢層に比較して SiO2 量がやや高くなっていますが,既述のように斑晶鉱物として多量の石英破片を含むことと関係しており,より珪長質ということかもしれません.これは加労沢層凝灰岩の total Fe, MgO 量が尻高沢層に比べてかなり高いのもそれと調和的です.
右に,アルカリの組成傾向をアルカリ量-K2O比ダイアグラムで示します.これで分かることは,①アルカリ量が増えると K2O 比が減少する傾向がある,②尻高沢層凝灰岩は加労沢層凝灰岩に比較してアルカリ量が多い(=K2O が少ない),の2点です.①は,アルカリ量の増加分はおもに Na2O が担っているということですので,おそらく変質作用に起因する組成移動を示しているものでしょう.加労沢層凝灰岩は尻高沢層に比べて変質の度合いが小さいのかもしれません.
あまり知られていないことですが,尻高沢層珪長質凝灰岩中には,異質岩片として花崗岩質深成岩の砕屑粒子が普通に含まれています(川村,1985a).ここに示したものは,その鏡下写真です.知られていないというより,そもそもこのような岩石の鏡下記載を行いそれを記述した研究例がほとんど無いということでもあります.
南部北上帯 “主部” 古生層では,花崗岩質砕屑物供給が始まったのは一般にペルム紀中頃からと認識されており,(デボン~)石炭紀砕屑供給は『火山性供給』が主体です.既に述べたように下部石炭系基底礫岩にも花崗岩質砕屑粒子が少量ですが普遍的に含まれており,これらの花崗岩質砕屑粒子は南部北上帯全体の構造発達(後述)を考える上では貴重な資料ではありますが,その意義は必ずしも明確ではないのが実情です.
このアーティクルの 最初の部分 で,南部北上帯古生層地質インデックス図の中に石炭系の分布を示しました.しかし,そういった地層分布図をいくら眺めても『南部北上石炭紀島弧』の実態は見えてきません.いろいろと探してみたのですが,そういうスキームを分かりやすく表現したものは見つけることができませんでした.
しょうがないので,前出の Kawamura et al. (1990) に出したものを持ち出します(右図).これは市川浩一郎先生の IGCP Project "Pre-Cretaceous Terranes of Japan" の統一フォーマットに従って描いたものですが,こういった構造層序図を日本列島全体にわたって皆で描いたというのは秀逸なコンセプトだったと思います.
下に大きな表示で自由にスクロールできるものも掲載しておきます.
良くこれだけ憶測を交えて書いたものだと我ながら思いますが...ここで示したいことは,南部北上帯の少なくとも “中央部”(=日頃市・世田米・大股亜帯を曖昧に指す)では,シルル~デボン紀の陸上珪長質火山活動の後にタイムギャップを持ってバイモーダルな石炭紀島弧火山活動が起きているということです.シルル~デボン紀の火山活動についてはその起源が(シルル紀溶結凝灰岩を除いて)まったく不明なのですが,大陸縁島弧型のものではないかと推測しています.
※ この構造層序図は,南部北上帯西部領域では当時のデータというか認識の不足により,非常に不正確なものとなっています.西部領域(当時の “母体-松ヶ平帯” )では,上部デボン系の下位に氷上花崗岩類+シルル~デボン系をすべて欠いて,オルドビス紀の島弧型上部マントル+下部地殻が存在しています.本来は描き直すべきなのですが...この後に作成を予定しているアーティクル『早池峰構造ゾーン』に回したいと思います.
つまり,“気仙褶曲” という規模・態様・要因不明のなんらかの変動をはさんで,珪長質火山活動の卓越する大陸縁島弧から,珪長質+玄武岩質というバイモーダルな火山弧へ変遷したということになるでしょう.したがって石炭紀砕屑物供給も,『火山弧性』になります.
下部石炭系中に見出される花崗岩質砕屑粒子の由来としては,①先シルル紀氷上花崗岩,②石炭紀島弧火山活動に伴う準同時的な珪長質深成岩,という二つの可能性が考えられます.どちらなのかを判断する材料はありませんし,両方なのかもしれません.
ただし,氷上花崗岩の主要な分布地である日頃市亜帯では下部石炭系中に花崗岩質砕屑物が記載された例はなく,石炭系基底も中部デボン系を不整合に覆うだけでそれ以上の(氷上花崗岩まで)削剥があったというのは考えにくい点があります.私は②の可能性が高いのではないかと考えています.しかし,石炭紀花崗岩の実体は現在の南部北上帯の中には存在しません.花崗岩質岩砕屑粒子から絶対年代が得られれば一発で判明するのですが,そういう研究は残念ながら行われていません.
少し無謀な試みですが,南部北上帯石炭紀プレートテクトニクスを考えてみます.私が世田米地域で下部石炭系を研究した 1970 年代には,そういう方向性はまだありませんでした.1960-1970 年代の “湊正雄学派” ではいわゆる地向斜造山論が鉄板であり,日本列島にもバリスカン造山(Variscan Orogeny)があったという主張があって,それが『安倍族造山運動(Abean Orogeny)』(湊,1960)へとつながりました.
湊 正雄(1960)花崗礫岩からみた日本の3つの造山運動.地球科学,No.46, 30-37.
地向斜造山論というのは平たく言うと,地球上に狭長な堆積盆が発生し,そこに厚い(10 km とか)地層が堆積する(=地向斜),その底部が変成・溶融して花崗岩質マグマと深成岩体が形成され上昇して山脈となる(造山運動),その運動は全世界同時的に起きる(場合がある?),というものです.自分自身あまり良く分かっていないので,間違っていたらご容赦.
こういう考え方は今となっては無根拠・荒唐無稽な感じもしますが,そういう造山変動が地球上のあちこちであったこと自体は厳然たる事実です.現在の考え方を適用すれば,大陸塊の離合集散・超大陸の形成がこういった変動を引き起こしたと言えるでしょう.しかも,ある大陸接合で形成された新しい大陸が再び分裂して drift していけば,『地球のあちこちで同じ時代に造山運動があった』ようにも見えるわけです.実際バリスカン造山は,ローレンシアとゴンドワナ大陸の衝突によってレーイック海(Rheic Ocean)が閉鎖しパンゲアが形成された時の衝突帯であると “翻訳” されています.
私は 1983 年(40 年前!)に提出した博士論文で,主査の加藤 誠先生から『南部北上のプレートテクトニック・モデルを必ず入れるように』と厳命されました.右図は,そのモデルから石炭紀の部分を抜き出したものです.本来公表が義務なのですが,諸般の事情でそうはなりませんでした.“諸般の事情” というのは要するに『公表するレベルまで持って行けなかった』ということでもあります.
説明や彩色を加えてそれらしくしたつもりですが,図は 1983 年当時のままです.手描き作画技術の未熟さに加えて,テクトニクスに未経験の人間がとってつけたように作ったというさまが見え見えなものです.しかし今となっては懐かしいし貴重かもしれません.なにしろこういった南部北上テクトニクスについてのトライを,(異論はあるかもしれませんが)現在に至るまで誰もしていないのですから.正直な話,現時点で考えてみてもこういったものしかできないような気もします.おそらくその行き止まり状況を打開する道は『広範な砕屑性ジルコン年代取得』だろうと思っています.
気を取り直してこのモデルを要約すると,前期石炭紀(~前期ヴィゼー期)には,南部北上帯は活発なバイモーダル島弧火山活動と引張場での堆積盆分化の場でした.後期ヴィゼー期になると,島弧火山活動は相対的に弱化し,堆積盆分化も弱くなり広い炭酸塩堆積場に変化しました.その理由は誰にも分っていませんが,このモデルでは投げ槍に『プレート沈み込みの終息・鈍化?』と書いています.炭酸塩堆積場の海溝側には,“残存海洋地殻” からなる島弧-海溝ギャップがあるように描かれていますが,その根拠は我ながら明らかではありません.もしかすると,釜石地域のデボン-石炭系の岩相から夢想したものかもしれません.しかしこの描き方だと,島弧域とプラットフォームだけで前弧域がありません.世田米-日頃市が前弧域ということなのでしょうか? 我ながら昔のことでよく分かりません.
おそらく...もっとも重要と思われるキーポイントは『南部北上石炭紀島弧が何の上に形成されたのか?』ということではないでしょうか? それ以外の点は,いずれにせよプレート沈み込みしか島弧を形成する手はないので,大同小異でしょう.
上の図では,南部北上島弧は『古期付加体+花崗岩質岩』の上に形成されたように描かれています.花崗岩質岩は言うまでもなく氷上花崗岩ですが,“古期付加体” とはいったい? 壺の沢片麻岩や母体層群が念頭にあったとは思いますが,その実体は現在でも不明としか言いようがありません.
40 年後の現在もデータ不足で,やはりこのへんが限界かな?と思われます.
そこで,もう少しグローバルな視点から南部北上帯の石炭紀構造場・古地理を考えてみます.
右の図は,大藤・佐々木(1998)の図から編集・加筆し作成したものです.
大藤 茂・佐々木みぎわ(1998)古生代〜中生代の “アジア大陸” と “日本列島”.地質学論集,No.50, 159-176.
ポイントになっているのは,なんと言っても『モンゴルMongol - 吉林Jirin -日本Japan 弧(M-J-J Arc)』(大藤・佐々木,1998)でしょう.南部北上帯はその一部に相当することになります.M-J-J 火山弧は南中国地塊の古太平洋側に位置し,両者の間には背弧拡大軸が描かれています.これは南部北上帯石炭紀火山活動がバイモーダルであることにとって都合の良いことです.
なお,M-J-J 火山弧の北方延長には,北中国地塊縁辺の大陸弧があるように描かれていますが,これは何かの論文(失念)を参考にして私が勝手に描いたものだったと記憶します.要するにこの時代の珪長質火山活動を(なんとか)説明したかったということですが,大陸塊が違うわけで,あまり意味があるとは言えません.
南部北上帯は大藤・佐々木(1998)だけではなく,磯﨑(2011)をはじめとして多くの著者が南中国(South China)地塊の縁辺-古太平洋側に位置していたと考えています.磯﨑(2011)はいまのところ唯一無二の日本列島についての包括的な古地理・プレート復元ですが,石炭紀についてはあまり解像度が高くなく,南中国に付着した “原日本(proto-Japan)” として描かれているだけです.南部北上帯についての specific な考察があるわけでもありません.ただしその中で,『デボン紀~前期石炭紀にかけて構造浸食により島弧が縮小し,その後ペルム紀にかけて付加体・花崗岩質バソリスの形成により再び島弧が成長した』という興味深い指摘が行なわれています.
磯﨑行雄・丸山茂徳・中間隆晃・山本伸次・柳井修一(2011)活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史-日本列島形成史アップデイト-.地学雑誌,120, 65-99.
右にあげたのは,有名な C.R. Scotese による Atlas of Phanerozoic Paleogeographic Maps (2021) の古地理復元図から北中国-南中国周辺を抜き出し,Atlas of Ancient Oceans & Continents (2017) を参考にして,大陸塊名称やプレート境界を加筆し作成したものです.
Scotese (2021) の古地理復元によると,まず最初期石炭紀(360 Ma)にゴンドワナ大陸の北縁部にリフトが形成され北中国・南中国=キャセイジア(Cathaysia)注)が break-up して古テチス海が形成されました.Scotese (2017) のモデルでは北中国+南中国がゴンドワナから分離してキャセイジアを形成したのは前期オルドビス紀(480 Ma 前後)となっていますので,それと比べると分離年代はかなり若くなっています.その解釈変更理由は不明です.
注)Scotese (2017) では “Cathyasia” と表記されている.誤記なのかどうかは不明.
前期石炭紀(340 Ma)には,リフトは拡大軸となり古テチス海(Paleotethys)として拡がっていき,北中国+南中国もそれに伴って時計回りに回転します.その南縁辺には沈み込み帯が発生しています.ゴンドワナの北にあった原テチス海(Prototethys)は分断され東側は古太平洋(Panthalassa)と一体化しています.
後期石炭紀(320 Ma)には,古テチス海はさらに広がり北中国+南中国も回転・北上しカザフ+シベリアと一体化します.その古太平洋側には沈み込み帯が発生しています.
この古地理モデル上で南部北上帯下部石炭系を考えるとどういうことになるでしょうか?
まず,大藤・佐々木(1998)や磯﨑(2011)に従って南部北上帯のロケーションを南中国の古太平洋側とすると,どうもしっくりこない点があります.南部北上石炭系で島弧火山岩類が卓越する前期石炭紀(340 Ma 前後)に,『沈み込み帯がありません』.正確には,Scotese (2017) にあるように,オーストラリアの東縁から古太平洋の中へと続く沈み込み帯が描かれていますが,南中国(・インドシナ)からは遠く離れています.これでは火山弧が造れない...古テチス海側の沈み込みでという手はありますが,南中国の反対側です.
いろいろ考えたのですが,とりあえず今のところの workaround として,Scotese (2021) の年代を Scotese (2017) に合致する方向へ 20 Ma ずらしてみました(右の図をクリック).姑息な手ですが,南部北上帯下部石炭系の実態にはかなりマッチするようになりました.
つまり,南部北上帯前期石炭紀島弧火山活動は,南中国地塊の北東縁,古太平洋との間に沈みこみ帯が 340 Ma ころに形成された(ジャンプした?)ことによって開始したということになります.石炭系基底の不整合(気仙褶曲)は,380 Ma までに始まったゴンドワナ北縁の break-up と関係した構造運動だった可能性が考えられるでしょう.
しかしこのモデルでは,①前期石炭紀島弧火山活動がバイモーダルだったこと,②後期ヴィゼー期以降の堆積盆均質化と炭酸塩堆積場への変化,の2点はうまく説明できません.①は,既に述べた大藤・佐々木(1998)のように,沈み込み帯を南中国から少し離して,その間に背弧拡大を入れれば説明できるのかもしれません.
いずれにせよ,こういった古地理復元は,その前提や使用データによって(同じ著者でも)まったく異なった結果となってくるので,なにが真実かは分かりません.しかし,こういったことを考えてみることによって,単なるどこかの島国の古生層の層序・岩相という範疇だけではなく,磯﨑(2011)のような境地に少しでも近づけたのではないか(?),と正直思っています.