南部北上帯ペルム系坂本沢層基底不整合
Basal Unconformity of the Permian in the South Kitakami Terrane

川村信人(北海道総合地質学研究センター)

※ 本アーティクルは,北海道大学理学研究院在職時に行った検討を元にしたものです.


はじめに

 私は地質屋人生の前半 1/3 ほどを『南部北上古生層』の層序学的研究に費やしたが,その主要なテーマは “氷上花崗岩-シルル系 ” と “下部石炭系の層序と火山岩類” の二つであり,ペルム系を正面から研究テーマとしたことは無かった.ただし,自分でも忘れていたが,川村(1980)『世田米地域の下部ペルム系基底相』という学会講演があり,それなりの関心を持っていたことは事実である.

 ペルム系は南部北上古生層の中でもっとも広い分布面積を持つもので,石炭系以下の地層を調査していると,必ずそれに遭遇する.特にその最下部(坂本沢層)は,下位層を顕著な不整合関係で覆うので,層序屋の性(さが)として,自分の研究テーマに関係ないとは分かっていてもどうしてもそこに目が行ってしまう.一度目が行ってしまうと,写真を撮ったり,スケッチを描いたり,サンプルを採りおまけに薄片を作ってしまったりするのである.最終的には化学分析などもやってしまった.
 1983年のD論提出後,それらの結果を用いて短い論文として投稿しようと考え,色々と資料を準備したが,結局できずに終わった.なぜできなかったかというと,『この不整合の本質』がどうしても見えてこず,書けなかったからである.誤解を恐れずに言えば,現在でも私だけではなく,誰にも理解できていない.
 以下では,これらの日の目を見なかった資料を基にして,南部北上古生層中のもっとも大きな不整合現象について,自分なりに記録しておきたい.


南部北上古生層と下部ペルム系坂本沢層

北上山地の地質インデックス図.内野隆之氏作成の原図をリライト・加筆したもの.黒色点滅部が南部北上帯ペルム系の分布.

 ここで “南部北上古生層” と略記しているのは,正確には『南部北上帯(South Kitakami Terrane)を構成するオルドビス系~ペルム系』のことである.南部北上帯は一般に『古生代島弧』とされているが,その実態・発達史・テクトニクスは,(信じ難いことに)いまだに不明である.

 南部北上古生層の特徴をざっくり書くと,デボン系~下部石炭系は火山(砕屑)岩相を相当量含み,ペルム系は通常砕屑岩相が卓越する.また,どの層準でも炭酸塩岩相を含むが,特にシルル系・下部~上部石炭系・ペルム系下部には含化石石灰岩層が発達している.
 右図は南部北上帯の地質分布を簡略化して図示したものであるが,ペルム系の分布(黒色点滅部)は,古生層の中でもっとも広いものであることが分かる.

 南部北上古生層の中には,いくつかの “構造的” 不整合がある.シルル系・上部デボン系・下部石炭系・下部ペルム系基底の4層準に不整合が存在し,下部ペルム系基底不整合は,その中で最大の規模と明瞭な層序ギャップを持つ顕著な不整合である.


“世田米褶曲”

湊正雄(1942)北上山地に於ける先坂本澤階(Pre-Sakmarian)不整合と其の意義.地質学雑誌,49, 47-72.

Nagao, T. and Minato, M. 1943: Ueber eine bedeutende Diskordanz im jüngeren Palaeozoikum des Kitakami-Gebirges im nördliscnen Honsyu, Japan. Journal of the Faculty of Science, Hokkaido Imperial University, Series 4, Geology and Mineralogy, vol.7, no.1, 29-48.


 この二つの論文は,日本列島の古生層研究にとって,まさにエポックメーキングなものだったと思われる.特に,湊正雄の記載的な(bed-by-bed の)層序研究手法は,下部石炭系を扱った湊(1941)と共に,古生層研究にとって重要なものであったが...残念なことに “それを継ぐもの” がいなかった.その意味では『孤高の仕事』であったとも言える.


 この論文でもっとも重要なことは,世田米褶曲(Setamai Folding)の提唱である.それ自体はのちの “気仙褶曲” “清水褶曲” と共に,Stille 流の『造山時相』的なものだったと思われるが,古生代の地層中に不整合をキーとして構造運動を認識したのは重要な観点であった.


犬頭山から見下ろす世田米.背景は五葉山.1980 年代終り頃の撮影.

※ 『世田米(せたまい)』というちょっと不思議な語感の地名は,岩手県気仙郡住田町の中心部である.すぐに推察されるようにこれはアイヌ語起源地名で,Seta - oma - i(犬のいるところ)であるとされている.世田米のすぐ西には犬頭山(いぬがしらやま)という石炭紀サンゴ化石産地として有名な山(552.9 m)がある.この日本語山名と世田米のアイヌ語語源との関係については,いろいろと推察されるところはあるが,不明である.


Nagao and Minato (1943) に掲載されている世田米地域合地沢の坂本沢層基底不整合露頭スケッチ.湊(1942)にはこの簡略版(?)が掲載されている.“1.70 m” というのは cm 精度!ということになり,いかにも湊先生らしい.

 世田米褶曲の根拠になったのは言うまでもなくペルム系坂本沢層基底部の不整合であるが,Nagao and Minato (1943) には,その不整合露頭の見事なスケッチが掲載されている(右図).野外地質屋の端くれの一人として,この露頭スケッチはお世辞抜きでうらやましい.私は結局このような見事な露頭に遭遇することはできなかったからである.坂本沢層基底不整合露頭が記載されている例は他にはなく,いわゆる “天使が舞い降りた” 露頭の一つであろう.単なる直感であるが,このスケッチには元になった写真があるはずと推察する.それを見ることができないのが,返す返すも残念である.


合地沢下流部から犬頭山にけけての3D俯瞰図.Google Earth による.

※ 私は博士論文研究で合地沢上流部を調査しているが,歩いたのは湊(1942)の “j 沢” から上流だけで,この不整合露頭が記載された “h2 沢” は歩いていない(右図参照).なぜ歩いていないのかはもはや分からない.当時の私のテーマであった『下部石炭系の岩相層序』とは関係なかったから・坂本沢不整合にはたいして興味が無かったから・単に調査期間的に余裕が無かったからか...もったいないことではあるが,歩いていればこの露頭を見ることができたはずとは必ずしも言えないところが野外地質のびみょーなところである.私がこの地域を歩いたのは 1970 年代の終わりなので,湊先生が歩いてから既に 40 年近い年月が経過していた.


 湊(1942)は,この不整合直下の石炭系層準が長岩層・鬼丸層・大平層にわたることから,広範な斜交関係にあったと結論し,そのハイエタスがすなわち『世田米褶曲』という構造運動を示しているとした.これは非常に重要な指摘であるが,検討箇所が合地沢下流部東側という,ある意味非常に狭い地域だけの層位現象である.南部北上帯内で広域的にどうなのかは,不明なままだった.最後に彼らは,世田米褶曲のテクトニックな意義について,同時期のマラソン造山(北アメリカ).昆明運動(南中国)・asturische Phase (by STILLE) に対比している.しかし,議論の大半は化石年代(の欠如)などの古生物学的な問題に費やされており,それらの構造運動に関する詳しい議論は行われていない.


斎藤(1968)

斎藤(1968)による,南部北上帯下部ペルム系基底不整合の下位に接する地層の層準を示した図.斎藤(1968)の第2図をトリミングしたもの.

斎藤靖二(1968)“世田米褶曲” -南部北上山地における石炭紀末の変動-.国立科博専報,No.1, 13-19.


 湊らの画期的な論文から 25 年が経過して,やっとこのような仕事が公表された.この論文は,非常に重要な指摘を含んでいる.つまり,『南部北上帯における先坂本沢不整合の広域的なハイエタス』が初めて明らかになったのである.湊(1942)が扱ったのは,世田米地域合地沢周辺という非常に狭い地域に過ぎず,この不整合の広域的な態様は記述されていなかった.
 この論文の第2図に示されているのは,坂本沢層不整合直下の地層の層準である(右図).ある意味で意外なのだが,南部北上帯の大部分の地域では不整合に被覆されているのは上部石炭系長岩層で,特に下部石炭系大平層・有住層が被覆されているのは,合地沢を含む世田米西方地域だけである.これらの分布は,ほぼ南北の軸を持つ複背斜状になっているように見える.これはこの論文が明らかにした画期的な事実と言える.

 しかし,そこから導かれることは必ずしも多いとは言えない.斎藤(1968)の議論部分である『“世田米褶曲” の性格』では,①坂本沢層堆積前に南北方向の背斜構造が形成された,②その構造はブロック化を伴う平坦な地層の曲隆程度のものであった,③その変形はペルム系の堆積場の形成を制御している...といった点が指摘されている.いずれも重要なものであるが,その章は『……を明らかにすることは,構造発達史を正確に知る上で重要であろう.』と結語されている.

※ この結語表現は私自身も論文でよく使った常套句である.“少なくとも私の場合は” であるが...それはつまり『まだ(明らかにできるかも)よく分からない』という意味であった.


世田米地域の坂本沢層

川村の卒業論文~博士論文研究での世田米地域調査地域インデックス.暗灰色シェード部が調査範囲.赤紫枠は下に示す各地域抜粋地質図のおおよその範囲を示す.地形図は,国土地理院地図をカシミール3Dで表示したもの.

 私は 1974年から1980年代前半にかけて,卒業・修士・博士論文研究のために世田米地域の古生層を調査した.その目的は下部石炭系の岩相と層序であったが,下図ペルム系坂本沢層は,その調査範囲のいたるところに露出していた.
 右図はその調査インデックス図で,黒点線で囲んだ範囲が私の調査範囲である.坂本沢層基底部が下部石炭系を不整合に覆う部分の地質図の抜粋(赤紫枠)を下に示した.

 ここで重要なポイントは,『坂本沢層は下位の地層の構造に規制されず,そこかしこに分布している』ということである.言い方を変えれば,坂本沢層は世田米地域に限ってみても,さまざまな層準の下位層と接して分布し,随所で不整合に覆っている,ということになる.
 下図を見ると分かるように,“さまざまな層準” とは,長岩層・鬼丸層・加労沢層・大平層・有住層・尻高沢層,つまり石炭系のすべての層準である.このことは,ペルム系堆積時に少なくとも下部石炭系最下部付近まで大規模に浸食されていたことを示す.これについては後の章で述べる.
 仔細に見ると,下有住地域では鬼丸層とは断層関係,また下有住・横田地域の東部に広く分布する大平層を不整合に覆う部分はない.しかしこれらは,以降の構造変形と分布状況で『たまたまそうなっている』ということであって,特に意味はないと考えられる.

※ 調査地域北部の奥火の土地域には,先シルル紀氷上花崗岩体およびシルル系とデボン系が狭い範囲に分布するが,今のところ坂本沢層がそれらを不整合に覆う部分はない.


 南部北上帯古生層は,特に世田米地域とその西部では,層準に関わらず構造が非常に複雑で断層による転位も激しく,坂本沢層堆積時の下位層の構造や,坂本沢層と下位層の構造差などを単純に復元することはきわめて困難である.つまり,“世田米褶曲” による変形を,斎藤(1968)が示したような広域的スケールよりも小さな(=ルート・露頭)スケールで記述することは,残念ながらほとんど不可能と言ってよい.


世田米地域における坂本沢層基底分布地域の地質図(抜粋).川村(1985a,b,c)に使用した地質図の原図コピー(一部彩色)をスキャンした画像をトリミングしたもの.薄い黄色が坂本沢層下部砕屑岩相.茶色●が基底礫岩を含む礫岩層.波線が基底不整合面.青塗色部は下部石炭系鬼丸層石灰岩.下部石炭系の彩色は 1970年代当時の色鉛筆によるもので,技術的な問題で色が再現されていない.下部石炭系の凡例はここでは省略するので,下記論文を参照していただきたい.

川村信人(1985a)南部北上帯世田米地方の石炭系岩相層序,その1 世田米亜帯下有住地域.地質学雑誌,91, 165-178.

----(1985b)南部北上帯世田米地方の石炭系岩相層序,その2 世田米亜帯横田地域.同上,91, 245-258.

----(1985c)南部北上帯世田米地方の石炭系岩相層序,その3 大股亜帯加労沢~生出地域.同上,91, 341-352.


住田町小股付近の坂本沢層基底不整合

坂本沢層基底不整合露頭.住田町小股東方の大股川河床.1976/04/26 撮影.リバーサルフィルムを低解像度スキャンしたデジタルデータから画質・解像度復元したもの.

 世田米地域には坂本沢層の基底部分が広く分布しているが,私自身が不整合面そのものを見ることができたのはわずかに二箇所だけである.そのうち一箇所は草木の根に覆われた風化露頭の最上部にあり,詳細に観察できたとか写真を撮ったという記憶はない.左写真に示したのは,10 年以上にわたる調査期間でたった一箇所だけ(!)詳細に観察し,写真を撮ることができた良好露頭である.
 露頭位置は住田町小股の小股川-大股川合流地点の北東方約 525 m で,大股川の河床にある水平な露頭である.2005年頃,この貴重な露頭をしかるべき画質のデジタルカメラで再撮影し,あわよくば高画素パノラマ写真にしようかと現地を訪れてみたが,露頭は河床堆積物に完全に覆われており,その位置を確認することさえできなかった.30年も経っていればそういうものなのか...何事もそうであるが,地質露頭は一期一会・諸行無常と実感した.写真も露頭の一部を撮影したこれだけである.なぜもっと詳しく撮らなかったのかは,もはや分からない.当時の調査テーマと違っていたということなのかも.

 この露頭では,下位(下流側)に露出するのは下部石炭系尻高沢層の弱成層珪長質凝灰岩~凝灰質泥岩である.その上位(上流側)に坂本沢層の基底礫岩がやや凹凸を持った面で不整合に載っている.尻高沢層の傾斜は 50° E,坂本沢層の傾斜は 60° NW なので,両層の斜交角はほぼ 70° ということになる(下スケッチ図).不整合面の凹凸はこのスケッチ図では 2 m 近くあるように見えるが,露頭面凹凸による見かけ上の凹凸を含むので,実際の起伏がどれくらいあるのかは不明である.


坂本沢層基底不整合露頭見取り図.一つ前の露頭写真の見取り図.赤四角で写真の撮影範囲を示す.

 坂本沢層基底礫岩は砂基質の基質支持礫岩で,礫は散在しており礫質砂岩と呼ぶのが適当かもしれない.一部にはインブリケーション状の礫配列が見られる.
 こういった岩相から,この基底相は陸成~河川成層ではなく浅海成層である可能性が高い.


不整合露頭周辺の抜粋地質図.四分割〇印は花崗岩質岩礫を含む部分.砂時計のようなシンボルは後に示すクロリトイドの産地.

 この不整合露頭を含む小股~小股沢下流部の抜粋地質図を左に示す.坂本沢層は下位から基底部層・下部層からなる.小股沢の西斜面には下部層上位の坂本沢層石灰岩が露出するが,基底部層・下部層とは断層関係にある.

 坂本沢層基底部層・下部層は幅 300 m 程度で南北に分布し,向斜構造を示す.向斜構造の西翼は断層になっており,基底不整合が存在するのは東翼だけである.基底面下位には,上で示したように本地域の下部石炭系の最下部である尻高沢層(砂岩・泥岩・珪長質凝灰岩)が露出する.その走向傾斜は変化が激しく,激しく褶曲しているものと推定されるが,正確な構造と詳細層序は不明である.


小股付近の坂本沢層基底部層・下部層の地質柱状図.左:小股沢東支流.右:大股川.

 坂本沢層基底部層・下部層の地質柱状図を右に示す.ここでの層厚は基底部層が 25 - 60 m,下部層が 50 m+ である.

 基底礫岩に始まる基底部層はおもに泥岩・砂質泥岩からなり,薄い礫岩を挟む.砂質泥岩には陸生植物化石破片を大量に含む部分がある.泥岩中には弱変成鉱物であるクロリトイド斑晶を特徴的に含む部分がある.部層上部ではウミユリ破片などの海生動物化石を含む部分があり,少なくともその層準から上位は海成層である.
 下部層は,やや緑色を帯び淘汰の比較的よい粗粒砂岩・礫質砂岩からなり,花崗岩質岩礫を含む安山岩質火山性礫岩を特徴的に挟む.


小股周辺の坂本沢層基底部層・下部層の岩相

基底部熟成砂岩

坂本沢層基底部の熟成砂岩の顕微鏡写真.上:直交ポーラー.中・下:開放ポーラー.

 上で示したように,当時の私の調査地域に坂本沢層基底礫岩は頻繁に露出しているわけだが,そのサンプル写真は,不思議なことに残っていない.サンプルを採取していないはずがないと思われるが,当時のサンプルは退職時にすべて廃棄してしまい,確認不可能である.岩石薄片記載リストはあるのだが,まともな礫岩の記載はない.
 単なる記憶であるが,この地域の基底礫岩は風化だけではなく構造変形が激しく,まとまった礫岩サンプルとしての採取は困難だったのかもしれない.参考までに,日頃市地域の坂本沢層基底礫岩のサンプル写真 は,“第2講座サンプル” として北上山地写真アルバムページに掲載しているので参照されたい.

 右に示したのは,基底部層中の砂岩の薄片写真である.砕屑粒子は石英・石英岩・珪長質凝灰岩・珪長質火山岩-火成岩・チャート・泥岩を主体とし,薄片写真を一目見て分かるように熟成度が非常に高い.石英粒子には融食形・半自形を示すものが多く,少なくともその一部は火山岩起源である.長石類粒子はほとんどない.写真下に示したように,磁鉄鉱砕屑粒子がラミナ状に濃集する部分も認められる.
 これらの薄片写真を眺めてみると,粒子間ではあるが劈開の発達が著しく,泥質物質はほとんど再結晶している.今更であるが,“弱変成地質体” である南部北上古生層については,記載岩石学的検討さえも,その中に困難さを感じてしまう.ましてや...(以下略)


クロリトイド泥岩

坂本沢層基底部層の含クロリトイド斑状変晶泥岩.

 世田米地域で南部北上古生層中を歩いていると,この特徴的な見かけを持つ岩石はけっこう目にする機会が多い.クロリトイド斑状変晶を含む弱変成泥岩である(左写真上).鏡下で見るとますます特徴的で(左写真下),異常干渉色と放射状-束状集合で,一目でそれと分かる.

 クロリトイドは要するに Fe, Mg を含む含水アルミノケイ酸塩鉱物である.出現条件としては緑色片岩相ということのほかに,全岩化学組成によるコントロールが大きいとされている(例えば;Iwao, 1978).

S. Iwao (1978) Re-interpretation of the Chloritoid- Staurolite- and Emery-like Rocks in Japan - Chemical composition, Occurrence and genesis. Jour. Geol. Soc. Japan,, 84, 40-67.


坂本沢層基底部層泥岩の化学組成.rest = 灼熱減量 - total H2O.

 クロリトイド泥岩の全岩化学組成を右に示す.比較参考のために,通常の泥岩の組成も示してある.この組成から分かるように,坂本沢層基底部のクロリトイド泥岩は SiO2:50 - 56 wt%,Al2O3:24 - 29 wt%,total FeO:12 wt% で,通常の泥岩と比べて明らかに Al2O3, total FeO が多いという特徴がある.
 この組成特徴はラテライト質堆積物の特徴(右表の右列)と似通ったもので,坂本沢層基底部のクロリトイド泥岩は,通常の泥岩とラテライト質堆積物との中間的な特徴を示していると言うことができる.


坂本沢層基底部層泥岩の全岩化学組成ダイアグラム.上:SiO2/Al2O3 - total Fe2O3 図.下:Si-Al-Fe モル組成図.組成ドメインは Iwao (1978) による.

 これらの組成特徴をグラフで表わすと左図のようになる.
 上は wt% ベースで,縦軸に SiO2/Al2O3 比,横軸に total Fe2O3 量を取ったものである.坂本沢層基底~下部の泥岩は,通常の泥岩とラテライト質堆積物とを結ぶ線の中間付近にプロットされる.OR5 の組成は SiO2/Al2O3 比がやや小さくなっている一方,total Fe は多くない.鉄の少ないアルミナ質風化残留堆積物の関与も考えられるが,理由は不明である.
 下は Iwao (1978) による鉄アルミナ質風化残留堆積物についての組成三角図にプロットしたものである.坂本沢層泥岩は,やはり通常の泥岩の組成域から離れ,それほど Fe の多くない SiO2 - Al2O3 辺に近いカオリン質粘土の領域付近ににプロットされる.

 以上のことは,坂本沢層基底部の泥岩が,通常泥質堆積物にラテライト質(=鉄アルミナ質風化残留)堆積物の要素が “混入” あるいは “混在” したものであることを示す.おそらく,高温多湿な気候環境下で長期間継続した陸上風化の影響を受けたものということであろう.


坂本沢層基底部層中の陸上植物化石を含む泥岩.住田町小股付近.1975 -1977年ころの撮影.

 左の写真は,基底部層泥質岩中に見られる陸上植物化石破片濃集部である.写真に写っているものはすべて植物茎・幹破片と思われるが,中には葉化石もあり,博士論文作成時に古植物学がご専門の故棚井敏雅先生に見てもらったところ,Calamites sp. (蘆木)と鑑定していただいた記憶がある.どれがそうだったのか,鑑定サンプルはどこへ行ってしまったのか...もはや忘却の靄の中である.いずれにせよ,それ以上の古生物学的な意味は特にないが,坂本沢層基底部の堆積場が陸域に非常に近く,基底部岩相に対する陸成堆積物の関与を現わすものだと思われる.


安山岩質火山砕屑岩

坂本沢層下部層中に挟在する安山岩質火山性礫岩の研磨標本(上)と礫岩基質の薄片鏡下写真(下:直交ポーラー).An:安山岩礫,Gr:花崗岩質岩礫.鏡下写真中の干渉色の高い鉱物はすべて普通角閃石.それ以外の鉱物は変質斜長石.小股北方.

 基底部層の上位に重なる砂質下部層中には,南部北上古生層のどの層準にもない(?)特徴的な岩相が挟在する.安山岩質火山砕屑岩である.南部北上島弧性古生層の中に安山岩質のものが無いというのは俄かには信じられないかもしれないが,川村・川村(1989)を読んでいただくとお分かりのように,下部石炭系中の火山(砕屑)岩は,玄武岩質-流紋岩質のバイモーダルなものである.その他の層準でも,少なくとも明示的に安山岩質と判断されるものは無い.
 なぜこの火山砕屑岩が安山岩質と判断されるかというと,『苦鉄質鉱物として普通角閃石のみを含む』ためである.これも信じられないことかもしれないが,南部北上古生層中で一次的な火成普通角閃石が砕屑粒子として含まれるのは,私の知る限りこれだけである.

 さらに驚くべきことであるが,この火山性礫岩中には珪長質深成岩礫が普通に含まれる(下写真).キャプションでは『花崗岩質岩』と表記したが,アルカリ長石をほとんど含まないトーナライト質のものである.


安山岩質火山性礫岩中の花崗岩質岩礫(Gr)研磨標本(上)と薄片鏡下写真(下:直交ポーラー).小股北方

 南部北上帯ペルム系では周知のように,珪長質深成岩礫が含まれるのは中部~上部ペルム系中のいわゆる 薄衣型礫岩 だけで,坂本沢層からの報告はこれまで無い.ただし,下部石炭系中にも,注意して見るとさまざまな粗粒岩相に 珪長質深成岩砕屑粒子 は含まれているので,単に『注意深く検討・報告されていない』だけと思われる.
 坂本沢層の安山岩質火山性礫岩中にこのようなサイズの珪長質深成岩円礫が多量に含まれるテクトニックな意味は...よく分かっていない.付け加えると,この深成岩の形成絶対年代も不明であり,薄衣礫岩のように準同時的なものか,あるいは古期花崗岩の露出が島弧火山活動域の中・近傍にあったのか...も考える材料はない.

 最後に,この粗粒火山砕屑岩は(花崗岩質岩礫を除いて) “単一供給源” であり,不淘汰な基質支持礫岩である.周囲の岩相も浅海相とみなされるものばかりであり,斜面相は存在せず,供給源はごく近傍にあるものと推察される.南部北上帯のペルム系中には角閃石安山岩火山噴出相は知られていないので,その供給源は謎である.可能性としては以下の三つがある.

① 供給源は上で推測した以上に遠いもので,現在の南部北上帯では失われている.例として,飛騨外縁帯のペルム系空山層は玄武岩質~安山岩質火山岩類からなる.

② 供給源は実際には南部北上帯内に存在するが,ペルム系=砕屑岩+炭酸塩岩相という先入観から,他の地質体(例えば;前期白亜紀島弧火山岩類)と誤認されている.

③ この角閃石安山岩火山砕屑岩はペルム系のメンバーではなく,実は前期白亜紀島弧火山岩で,断層 and/or 褶曲により狭長に挟み込まれている.


 ③は破壊的な可能性であり,もしそうならこの項(-安山岩質火山砕屑岩-)に書いたことは,すべて意味と妥当性を失う.ある意味突飛な話とも思われるが,南部北上帯古生層の変形度を考えるとあながちあり得ない話でもない.私が過去の研究で扱った南部北上帯古生層には,実は他にもそういう可能性を持ったものがあり,考えるだけで怖ろしい.地層の年代クライテリアが化石しかないというのが原因である.現在ならジルコン年代という手もあるのだろうが...


柏里地域下部石炭系の “非対称性”

住田町柏里付近の地質図.

 “非対称性” というのは,どう簡潔に表現すべきか分からずそういう妙な表現になってしまったのだが,上の地質図を見て欲しい.

 住田町柏里を中心とした地域には,東西にペルム系坂本沢層が分布し,その東西端にこの地域では最上位の坂本沢層含フズリナ石灰岩が露出する.坂本沢層の構造は『大局的に』南北の軸を持つ背斜構造で,東翼では東傾斜で下部石炭系有住層を,西翼では西傾斜で有住層の下位層である尻高沢層をそれぞれ不整合に覆っている.
 地域中央部に南北性の断層があり,下部石炭系の露出は断層の東側に有住層,西側に尻高沢層と,分布が二分されている.この断層に沿って,未区分の “デボン系” が露出する.つまり,石炭系の分布はペルム系の大局的な背斜構造とは不調和になっている.


住田町柏里付近の地質断面図.断面線は上の地質に示す.

 柏里地域の地質断面図を右に示す.正直な話,南部北上古生層の特に下部石炭系以下の地層の構造は非常に複雑で変形も著しく,露出も断片的なので,その構造や層序を正確に把握することは難しい(下注)

注)したがって,“空間周波数についての強いローパスフィルター” を掛けて調査データを処理する必要がある.この断面図はその結果である.1983 年当時の図をスキャンしたものであるが,作画技術の未熟さも相まって,少しフィルターを掛け過ぎかとも思える.今となってはどうにもならないが.
 もちろんそれは “脳内フィルター” なので,非常に主観的なことになってしまうが,それは南部北上古生層研究の 1970-80 年代当時の限界である.その限界が現在どう克服されているのかいないのか,私は知らない.


 それはとにかく,この断面図から見えることは...下部石炭系の構造は二つの背斜構造からなるが,その波長はペルム系のそれと比較して短く,褶曲軸の位置も一致しない,ということである.これはすなわち,ペルム系基底不整合以前に形成された変形が見えているということなのだろう.


坂本沢層基底ハイエタス

坂本沢層基底不整合のハイエタス.地質年代区分は,International Chronostratigraphic Chart を参考にして作成.

 この不整合の地質学的意義は,なんと言ってもそのハイエタスの長さである.ここで紹介した坂本沢層基底礫岩に不整合で覆われている地層の下限は,南部北上帯石炭系の最下部層,尻高沢層である.その年代はトルネー期で,下限はどこまで行くのか不明であるが,ほぼ 350 Ma である.
 一方,坂本沢層はサクマル期で 290 Ma 前後.つまりハイエタスの長さは最大で 55 Ma に及ぶ.これはかなりの規模である.世田米地域中央部(“世田米亜帯”:川村・川村,1981)では,尻高沢層の上位には石炭系四累層が累重しているので,上に紹介した露頭では,それらがすべて削剥で失われていることになる.
 石炭系の層序区分・対比・岩相の水平的連続性の評価が難しいため,その削剥量を正確に見積もることは不可能である.しかし,世田米亜帯の石炭系の層厚を単純に積算すると 2,700 m+となり,最大でその程度の物理的な削剥量があるものと推定される.

 湊(1942)が名付けた『世田米褶曲』はこの構造イベントを示すことになるが,不思議なことにそのテクトニックな意義を(現代的な意味で)論じた例は皆無である.そもそも世田米褶曲をテーマとした論文は,湊(1942)と斎藤(1968)の二つしかなく,最後の論文から 50 年以上が経っているというのが現状である.


“世田米褶曲” の実相

 『実相』というのは大げさな表現(死語?)であるが,他によい表現が思い当たらない.あえて言うと,『plate-tectonic implications』だろうか.


1980年代の話

南部北上帯石炭紀のテクトニクス.川村が 1983 年の博士論文提出時に考え図化した obsolete なもの(未公表)の一部分を編集.

 右図は先坂本沢不整合形成前(石炭紀)のプレートテクトニック・モデルで,今から 40年も前に提出した私の博士論文に掲載したものである.
 ペルム紀の話は?!と思われるだろう.私の博士論文モデルは後期石炭紀で終わっている.なにもアイデアが無く描けなかったので造っていない,のである.

 要約すると,前期石炭紀(~前期ヴィゼー期)には,南部北上帯は活発なバイモーダル島弧火山活動と引張場での堆積盆分化の場だった.後期ヴィゼー期になると,島弧火山活動は相対的に弱化し,堆積盆分化も弱くなり広い炭酸塩堆積場に変化した.その理由は誰にも分っていないが,このモデルでは単に『プレート沈み込みの終息・鈍化?』と書いている.結局このモデルはそれで終わっているので,『なぜ先坂本沢不整合が形成されなくてはいけなかったのか?』は,まったく見えてこない.


磯﨑モデル

 そこで,なにか手掛かりはないものかと,まずは定番の磯﨑ほか(2011)を参照してみる.Up-to-date なモデルが当然他にもそこかしこにあるのだろうが,なにしろリタイアした地質屋には網羅的な探索はまったく無理であった.

磯﨑行雄・丸山茂徳・中間隆晃・山本伸次・柳井修一(2011)活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史-日本列島形成史アップデイト-.地学雑誌,120, 65-99.


 この論文の図9には,“ペルム紀前期(約 280 Ma)の日本列島周辺古地理図” として,まさに坂本沢層堆積時前後のスキームが,がつんと力強く示されている.日本列島の包括的な古地理というかプレートテクトニックマップが示されているのは,私の知る限りおそらくこの論文だけであり,敬服すべき仕事である.著作権の関係でそれをここに掲載することはもちろんできないので,興味のある方は ここ を参照して欲しい.
 惜しむらくは...南部北上古生層の認識というか評価が必ずしも十分とは言えないことである.例えば坂本沢層は,“前弧盆堆積物” とされているが,私の知る限り坂本沢層の中には斜面相は存在せず,すべて浅海~陸棚相である.斜面相はおそらく叶倉層上部およびその上位層だけと思われる.もっともこの責は著者らにあるのではなく,現在に至るまで南部北上古生層に関する構造堆積学的(tectono-sedimentological)な検討・提示をまったく行っていない私をはじめとした南部北上古生層研究者自身にあるということになる.もちろん『まったく』というのは言い過ぎというもので,例えば吉田(2000)をはじめとした南部北上古生層についての一連の優れた構造堆積学的研究は現に存在する.しかし,他の層準(・地質体)について多くの研究者によって網羅的に記述されているかというと,残念ながらそのようにはなっていないのが現実である.


 『磯﨑モデル』の南部北上帯ペルム系に関係する部分の骨子は以下のようなものである.

① 南部北上帯を含む日本列島は,石炭紀~ペルム紀にかけて,南中国地塊の北東部に位置していた.

② その時期,日本列島はパンサラッサ海(≒ 古太平洋)西縁の西方沈み込み帯を形成しており,活発な成熟島弧域として成長していた.

③ 三畳紀には南中国と北中国地塊が衝突し一体となったが,②の造構環境は基本的に継続していた.

 磯﨑モデルは石炭紀~ペルム紀を包括的に扱っているもので,その間の変化についての言及があるわけではない.そのため,世田米褶曲とその前後の造構作用に関しては(あまりにローカルで?),残念ながらヒントは得られない.


古テチス海東縁モデル?!

石炭紀~ペルム紀の古地理復元図.Scotese による PALEOMAP Project を元に,Wikipedia 等を参考にして作成.図のクリックで南部北上帯に関する解釈表示が on/off する.

どうもよく分からないのでしょうがなく,かなり古い(2002年!)ものだが C.R. Scotese の PALEOMAP Projects を探ってみた.眺めていると,南中国地塊周辺でこの時期,造構環境の大きな変化が起きたとされていることに気づいた(右図).
 なにかというと,古テチス海東縁に新たに東方沈み込みが発生し,それによって南中国地塊の陸域が成長し,一部は北中国地塊の浅海域と接続した,ということである.モデル年代は後期石炭紀と後期ペルム紀なので,その間のどのタイミングで起きたイベントなのかは分からないが,なぜ後期石炭紀炭酸塩堆積場が陸化し浸食されたのかを考える手掛かりにはなりそうである.
 もちろん,この造構発達モデルは 20年以上も前のものであり,もはや obsolete なものかもしれない.新しいデータや知見・考え方が増えているであろう現在どのように考えられているかは,私には到底フォローできず,不明である.とりあえず,次のようなことを考えてみた.

① 前期石炭紀島弧火山活動の要因だったパンサラッサ側からの西方沈み込みがなんらかの理由で不活発となり,火山活動が沈静化.

② それに伴って,堆積盆の分化要因も弱まり,単一に近い後期石炭紀炭酸塩堆積場へと変化.

③ 石炭紀末期~ペルム紀初期になんらかの理由で古テチス海側からの東方沈み込みが開始.

④ 南中国地塊での島弧火成活動が活発となり,島弧地殻が成長.火山帯の発達も加わって山地が成長・拡大し,その隆起によって下部石炭系が陸上露出する.

⑤ サクマル期までには島弧火成活動がなんらかの理由で沈静化し,陸域浸食が進行する.

⑥ サクマル期に入って,なんらかの理由で浸食域に海域が侵入し,坂本沢層浅海相が不整合関係で石炭系上に堆積する.


 言うまでもないが,これは単なる私の地質学的妄想というものである.また,『なんらかの理由』が多すぎる.要するによく分からない.
 南中国地塊南部に位置する “昆明(Kunming)地域” の石炭-ペルム系の層序・岩相を確認し,それらのテクトニクスが現在どのように考えられているのかを文献的に明確にする必要があるわけなのだが...Google/Bing 等で探索してみても特に情報は得られなかった.語学的なことを含めてそれ以上のことは到底私には無理なので,とりあえずここまでとしたい.


(2023/05/02公開)



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