私的・北海道地質百選
『チロロの巨石』

 このサイトは厳密に言うと,地質見学サイトではない.もちろん地質に関連したものではあるが,むしろ『地域の歴史サイト』と言った方がよいのかもしれない.


チロロの巨石.2010 年 8 月撮影.
巨石裏側の梯子.2010 年 8 月撮影.

 日高町千栄(ちさか)から千呂露(ちろろ)川へ入る道路を進むと,三島という集落跡に着く.2010 年当時はまだ住宅があったと思うが,現在はそれも無くなっていると思われる.
 さらに進むと,ペンケユクトラシナイ川を渡る橋がある.そのたもとの草地に苔むした古い山桜の木が立っている.幹は割れていて枯れ木のようにも見えるが,春にはちゃんと花を咲かしている.それがランドマークである.

 その横に横たわっているのが,『チロロの巨石』である(右写真).驚いたことに,Google Map にも掲載されている.

 その大きさはどこにも明記されていないが,長さはおそらく 8 - 10 m であろう.奥行きは 2.5 m 程度,厚さが 1.5 m といったところだろうか.

 この石(岩?)がなにかというと,“青色片岩” ということになるのだが,ポイントはそこではないだろう.この点については後述する.

 裏側に回ると,木の梯子が掛けられており,巨石の上に登ることができる(右写真).

上:巨石上面に見られる片理構造.下:巨石の側面に見られる青色片岩の岩相.2010 年 8 月撮影.

 上面には,複雑に褶曲した片理・成層構造が観察できる(右写真上).成層構造は膨縮・破断が激しく,褶曲も非調和なものに見える.成層チャート岩体でよく見られる褶曲構造に似た点もある.

 上面はやや風化しているので,“青色片岩” の岩相そのものは良く見えないが,巨石側面では,膨縮した白色層と青色層による互層構造がよく見える(右写真下).

 地質学的に書くと,この “青色片岩” は神居古潭帯(=白亜紀付加体)の低温高圧型変成岩の一つで珪質片岩と呼ばれるものである.青い色を示しているのは,リーベック閃石のような Na-角閃石を晶出している可能性が考えられるが確認はされていない.白/青の2色の層はそれぞれ,チャートと火山性泥岩(+砂岩?)を源岩としたものであろう.
 このような堆積岩は,もともと海洋プレート上に堆積した遠洋性堆積岩で,それが海溝から沈み込み,付加変成を受けた後に上昇してきたものである.

 千呂露川周辺には,神居古潭帯変成岩そのものの分布はない(橋本ほか,1961)ので,おそらくペンケユクトラシナイ沢上流に分布する蛇紋岩体の内部に捕獲された外来岩塊に由来するものであろう.


2010 年 8 月撮影.

 チロロの巨石の脇には,四枚の説明パネルが設置されている(右写真).設置主体が明記されていないが,おそらく日高町教育委員会によるものであろう.
 このタイプのパネルはサンゴの沢にも設置されているが,木製なのでその多くが現在は朽ち果てている.筆者が撮影した 2010 年以降更新されているかもしれないが未確認である.

 この四枚の説明パネルの文章は,当時の町長さんの直筆という話も個人的に聞いたことがあるが真偽は不明である.いずれにせよ,筆者のような年代の人間にとっては非常に味わい深いものである.地域から見た地質遺産がどういうものなのかという意味合いも感じられる.

 そういう意味で,以下に写真から読み取った説明文を掲載させていただくことにする.多少,ん?と思われるところもあるが,原文ママということにしたい.
 なお OCR で読み取った結果を編集したものなので,“トンデモ変換” が含まれている可能性もあるがご容赦願いたい.

チロロの巨石
 昭和40年代、北海道開拓団長の夢を追う栗林元二郎八紘学園理事長が巨費を投じて山脈の奥から搬出した日本一大きいと伝えられる日高青色片岩です。
 以来、前途遼遼としてこの地に止まったまま、伝説の竜神たちの夜な夜なの踊りの舞台のように、静かに眠っています。

ヒスイの沢(ペンクユクトラシナイ沢)
 昭和41年、この沢の奥から、久保内、高野、村上3氏によって美しいネフライト様岩石が発見され、やがて番場博士によって北海道で只一ヶ所のクロム透輝石ヒスイ=日高ヒスイと提言されました。
 草縁色の高貴な色調を誇る日高ヒスイは、大古の海から誕生した日高山脈の歴史を私達に語りかけるようです。

緑の三島集落史
 大正7年、福島県より入植した福島団体は、森と鉱物に恵まれて昭和25年には三百人近い集落となり、名前も近くの三井鉱山と合わせて三島部落として栄えました。
 これからも、日高山脈第3の高峰1967mやホロシリやキタトッタの登山口として、学術や伝説の拠点として新しい時を刻むことでしょう。

青春の秀五郎ルート
 数々の経歴に輝やく伊藤秀五郎元北海道教育長が、若き日の懊悩を抱えて道なき道を独り北日高山脈へ挑んだのは、昭和4年の晩夏のことでした。
 横浜の商家に生まれ、北大に憧がれて山岳部を創設した詩人が油紙のテントで星をみつめたのもこの先の河畔で以来、多数のアルピニスト達の足跡がこのあたり一杯に遺っています。


既存の指定など

(なし)


所在地

日高町 三島.


サイトの状態:


参考文献

橋本誠二・鈴木 守・小山内煕(1961)5万分の1地質図幅『幌尻岳』.北海道立地下資源調査所,46 p.


関連サイト



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